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日本初の忍者 〜志能便〜

皆の衆は忍者の起源はどこにあるか、ご存知でござろうか?

忍者の起源にはいろんな説がある。
最近では、韓国が「忍者は韓国発の文化だ」とか言ってたりする。
確かにそのような説もあるのだけどね。

拙者もどれが真実かはわからないのだが、拙者としてはかなり興味深いテーマとして捉えている。
今日はそんな忍者の発祥に関する一題。

第5回忍者検定 中級の部 第22問(配点1点)
============================================
6C末聖徳太子により「志能便」(しのび)として用いられていた、
日本最初の忍者といえば誰か。次の中から選べ。

①大伴細入
②小野妹子
③蘇我馬子
④山脊大兄王
============================================

6世紀といえば日本はまだ古墳時代。
世紀末から飛鳥時代に突入して行く訳だが、この頃推古天皇が擁立され、その摂政となった聖徳太子が、日本の國造りのために目覚ましい働きを見せていたのは、皆もご承知のとおりであろう。

聖徳太子がまだ16歳の頃、日本では1、2を争う力をもった豪族、物部守屋と蘇我馬子が、インドから渡来してきた仏教を崇拝すべきか排除すべきかでモメた。
この思想の違いが決定的な亀裂となり、ついにこの両氏の関係は、武力闘争へと発展していった頃であった。

時を同じくして、現在の滋賀県に位置する辺りに蘇我氏など共に「氏」を名乗る豪族、大伴氏がいた。
この大伴氏、この後西暦800年頃には伴氏に姓を変えている。
そう、甲賀二十一家にも名を連ね、今も川上先生が21代目として忍術を受け継いでいるあの伴家でござる!!

聖徳太子といえば奈良だが、奈良と滋賀は隣り合わせの県でござる。
聖徳太子は甲賀とのゆかりが深いのか、甲賀忍者が崇拝していた甲賀の神社である「油日神社」にも行っているとする資料も残っているらしい。

そこでどんな出会いがあったかはわからないが、聖徳太子は、甲賀馬杉に住む大伴細入(さいにゅう)という者を召し抱えた。
そして、物部氏討伐のために組成された、蘇我氏側の連合軍に参加させている。

記録にはないものの、細入は当該征伐戦において伝えられた軍術をもって忍び入り、様々な功績を上げて、聖徳太子がついた蘇我軍を勝利に導いた。

聖徳太子は細入に対し、この勲功から次の称号を与えたのである。

「志能便(しのび)」と。

=========================
回答:①大伴細入
=========================

これが忍びの始まりだったのでござるね。

だがこの大伴細入は、新羅(しらぎ。今の韓国)からやってきた者で、後の大伴家とは関わりがないという説もござる。
また、細「人」(さびと)とも呼ばれたりする。
これまた謎の多き人物でござるな。

飛鳥時代まで遡って忍者の存在があったなんて、なかなかにおもしろい。
そこから一族の中で忍術を熟成していったのでござろう。

それにしても「細人」というくらいだから、すごーく痩せていたんだろうな。
これでめっちゃ太ってたら嫌でござるw


最近歴史関係の問題ばっかりでござるな。。
忍術・忍器関連、そろそろ来い!!

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我ら忍び連合! 〜惣〜

また仕事が忙しくなり時間が取れなかったのだが、久々に今日は何にもないので久々の更新でござる。
(いつも言い訳から入ってる気が・・・w)

本日は前回説明することを約束した「惣」について!!


第5回忍者検定中級 第19問(配点:1点)
===============================================
中世後半から戦国時代にかけて甲賀で一般化した同族連合のひとつである
大原同名中惣での物事の決定方法は、先ず何か。

①多数決
②くじ
③神頼み
④長老の決断
===============================================
神頼みって・・・小枝を立てて倒れた方とかそういうことなのかw?


この問題でポイントとなるのは「惣」。
前回のエントリで少し触れたでござるね。
覚えているかね?
声に出して読んでみよう。

そう、「そう」と読むのだよ。
そうそう、あってるよ。


「惣」とは、基本的に皆平等の力をもってすべて会議によって決める自治組織のことと、前回述べ申した。

鎌倉時代で源頼朝が設置した「守護」とか「地頭」。
幕府から各地方の国における警察機能や経済統括機能を与えられた職である。
社会の授業とかで聞いた覚えもあるのではないだろうか?
これらの守護とか地頭とかが、鎌倉時代→南北朝時代→室町時代と、事実上の各国の領主として君臨していくことになる。
最終的にはこいつらが幕府より力を持って、戦国大名となっていくのだがね。

だが、この領主の統治力もまちまちで、地域によってはうまく統治できない領主も現れてくる。

「もう領主なんてあてにできんわ!自分たちで村運営しちゃるわ!」

といって、農民や小豪族達が団結してできた自治組織が「惣」なのである。
「○丁目自治会」みたいなもんでござる。


甲賀でもこの惣が興る。
まずは、「望月」とか「伴」とか、同じ苗字の一族のみで自治体を組んだ。

これが「同名中惣(どうみょうちゅうそう)」でござる。
「同」じ「名」で組織された「惣」ということね。
昔は親戚もみんな近くに住んで、親戚同士で結婚とかもしていたご様子だし。

甲賀の中の惣としては、これが一番小さい組織。
この惣の中でどう運営していくか、これを決めるにあたって、各同名中惣では「掟」を作った。
会社とか社団法人とかでも「定款」をつくるが、それと同じようなものだ。

甲賀に住んでいた「大原家」という一族の同名中惣がござる。
この大原同名中での掟である「定同名中与掟条々」が、今でも残されている。

その掟には、
一、他所と同名とで戦闘が起きたら、決して相手方に寝返らないこと
一、戦闘が起き、鐘が鳴ったら武器をもって参陣すること

など、近くの同名中惣と戦になった場合のルールなどが記されている。

その中に、惣内での意思決定にかかるルールがある。
一、同名の中で諸々の相談がある時は、多数決で決めること。
  少数のものは異論を唱えてはならない。
  万が一紛糾することがあれば、そのときはクジで決めること。


日本の歴史全体を見ると、明治維新までは天皇や幕府による統治制ばかりだったが、この頃から民主主義な地域があったのですなぁ。

=========================
回答:①多数決
=========================

最終的にはくじで決めるらしいが、問題文には「先ずは」とあるので、ぜひとも注意されたし!


ちなみに、甲賀地域における同名中惣は53家分あった。
これが後に語られる甲賀五十三家なのでござる。

そして、この「一族連合」である同名中惣を、更に甲賀地域内で連合させた「地域連合」体が「甲賀郡中惣」でござる。
要するに甲賀では、
・地域をベースにした自治組織である「甲賀郡中惣」
・同じ苗字の一族をベースにした自治組織「同名中惣」
の2つにカテゴライズされるのでござるよ!


拙者・嵩丸も同名中惣を組みたいが、、、、

まだ元服していないので苗字がないのだっ!!!

いずれ忍びとして一"忍"前になったら苗字をつけようと考えている。
だけどまだ良い苗字は思いついていない。。。。

多分募集してもコメントなんてないだろうけど、拙者に似合う姓、募集中です!!!w

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忍者の溜まり場 〜油日神社〜

もうすぐ年の瀬、そして新年を迎えようとしているでござるね!
これから忘年会の嵐。。。
また太る冬が始まってしまった。。

さて、皆の衆は初詣に参る神社・お寺は決まったでござろうか?

今日は拙者の中で「今一番行きたい神社ベスト3」に入る神社に関する問題。
このエントリを読めば、きっとそなたの来年の初詣は決まりですな!

第5回忍者検定 中級の部 第18問(配点1点)
============================================
中世から戦国時代、甲賀武士たちの信仰を集めた矢川神社と共に
甲賀郡中惣の集会の場所となっていたとして国指定史跡となったのは、どの神社か。

①多賀神社
②油日神社
③大鳥神社
④田村神社
============================================

忍者検定は甲賀市観光協会が作っているため、忍者にかこつけていろんな郷土の名所に関する問題が出るため、特に神社に関する問題は多いでござる。
なので、甲賀市にある神社は押さえておくべし!

設問にある「甲賀郡中惣」とは、一言でいうと甲賀地域における「合議体組織」である。
「惣」とは、リーダーがおらず、権力の多少はあれど基本的に皆平等の力をもってすべて会議によって決める組織のことをいう。
同盟国家のようなものでござる。
ちょうど次がその「惣」についての問題なので、詳しくは次に述べようぞ!

んで、問われているのは、その甲賀郡中惣での集会所となった神社。
要するに忍者の溜まり場だ!
何かを決めるとき、相談するとき、各々の家長はその神社へ集まったのでござる。

その神社がここ「油日神社」。

拙者はまだ行ったことがないので、写真を持っていないのだが、、、
↓のブログがすごく写真も大きくわかりやすいのでリンク貼らしていただきまする。

神社のある風景

大河ドラマ「平清盛」を見てた人、3年ほど前の二宮くんと柴崎コウが出てた映画「大奥」を見てた人、なんか見覚えはないかい?

そう、「平清盛」では、マツケン演じる清盛と加藤あい演じる明子がちょくちょく訪れた神社であり、「大奥」では、二宮くんと堀北真希が最初に落ち合っていたシーンで使われた神社でござる。

そんな皆のミーハーな心もくすぐるが、何よりも注目いただきたいのは、↑でのブログで「拝殿」と称されている、真ん中に立つ社。

うん・・

集まって話し合うなら絶対ココだよな!

ご想像いただきたい。
暗闇の中、拝殿の中に集まる忍び53名が、部屋の中央に立てられた小さなろうそくを囲んで密談。。。
どっかの映画で見たことがあるような風景が浮かんでくるであろう。

この油日神社、祀られているのは火の神「油日」である。
また一説によると、その昔は神社でも神仏混合で仏教系も祀っていたりしたのだが、そのときの仏様は摩利支天の風の神であったりと、忍者が崇拝するにはうってつけの神様・仏様でござった。
甲賀五十三家の氏神とされている。


ぜひ53名の忍者を集めて、この油日神社の拝殿内で、ちょっぴり酒を交わしながらも密談したいでござるな!

次甲賀に行くことがあれば拙者は立ち寄ろうと思ふ。

皆も来年の初詣は「油日神社」へ、レッツ忍!!!

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江戸時代最後の大戦  〜島原の乱〜

本日は、忍者が参戦したと記録される、最後の戦についての問題。
かの有名な戦でござる。

第5回忍者検定 中級の部 第15問(配点1点)
============================================
江戸の太平になると、多くの忍者は百姓の生活となったが、
3代将軍家光の時再び忍者が脚光を浴びる事件が起こった。
肥前の国の農民約4万人が一揆を起こし原城に立て籠った。
この一揆解決のため、老中の命を受けて甲賀忍者10名が参戦し軍功を挙げた。
この事件を何と云うか。

①肥前の乱
②甲賀一揆
③甲州一揆
④島原の乱
============================================


肥前は旧国名で、現在の長崎・佐賀にあたる地域でござる。
甲賀は現在の滋賀県、甲州は現在の山梨・長野にあたると覚えていれば、②と③は消去できよう。
あとは有名な戦を知っているかでござる。

前回のエントリで説明した関ヶ原の戦いがあったとき、この地域にある天草諸島は小西行長、島原半島は有馬晴信という熱心なキリスト教信者である大名が治めていた。
キリシタン大名というやつである。
故にこの地域には、庶民の中にもキリスト教信者が少なからずいたのでござる。


その後、関ヶ原の戦いが終わると、負けた西軍についていた小西の領地は没収され、東軍についていた有馬も領地変えが行われる。
ここで新たに天草諸島を治めることになったのが寺沢広高、島原半島を治めることになったのが松倉勝家である。

この大名達はキリシタン大名ではないので、キリスト教信者の弾圧を厳しく行った。
また、3代目徳川将軍家光によって義務づけられた参勤交代や、新しい城を普請したりするのにすごーくお金がかかるようになったため、農民にとっては厳しい年貢の取り立てを行っていた。
年貢が納められなければ井戸に落とされたり、磔にされるなど、厳しい弾圧があり、かといってイエス・キリストを心の拠り所にすることもできぬ。。
農民達のフラストレーションは、つもりにつもっていったのだった。

そんな中、5歳で読み書きを覚えて、多くの学問を身に付けた優秀な美少年が天草に現れた。
この少年こそが天草四郎。
この数年前、幕府に追放されていったキリスト教宣教師・ママコスが残していった予言「今から26年後に16歳の救世主が現れる」の、ちょうど26年目にあたる年であった。

この救世主をかつぎ、島原・天草の農民が蜂起して、1637年、島原天草の乱が起こったのでござる。


四郎率いる一揆軍は、昔松倉氏が壊して拝上となった原城を修理して砦とし、立て籠って幕府軍に対峙した。

幕府側は、板倉重昌を派遣し、この鎮圧にあたらせた。
板倉氏は
「どうせ農民ばっかりじゃし、すぐに終わるじゃろうて」
と、たかをくくって原城に2回も総攻撃をかけて攻め入ったが、糞尿は投げてくるわ、鉄砲で狙撃してくるわでハチャメチャな抵抗を見せた一揆衆に2回も敗走し、最終的に当の板倉重昌は、鉄砲の弾が当たり討ち死にに至ってしまったのである。

おそるべし反乱軍・・・

そうして幕府はこの事態を重く受け止め、老中である松平信綱が、討伐軍の総大将として狩り出されることになった。
松平信綱は東海道を進み、甲賀の地・水口宿で宿泊をした。

このとき、甲賀の忍者衆100人が、松平信綱に討伐軍に加えることを頼み込んだのでござる。
前回のエントリで山岡道阿弥が作った甲賀百人組は、江戸にいたわけであるため、そのなかに入っていない甲賀に住んでいる忍者達である。

松平信綱としては、忍者をそんな100人も連れては行けないので、10名だけを選んで連れて行った。
討伐軍が原城に着陣した後、信綱は甲賀衆に敵城の堀の長さ、高さ、深さなどを探るよう命じた。

とりあえず10名のうち5名の忍びが、夜中、敵城の堀下に忍び込んだ。
敵の警戒は厳しい。
もう少し様子を見て、隙をついて城に忍び込まねばなるまい。

そう考えた忍者衆は、夜中のうちに堀の下に落ちている敵・見方の死体の腹を切り裂き、腸を取り出して、自分の腹から出ているようにセッティングして死んだフリをした。
変装の術である。
こうして昼間は、ずっと死体として堀の下で待っていたという。

そうして夜となって闇が来ると、だいぶ敵が寝入ったスキを見計らって、城内に侵入し、敵城の視察を終えて老中に報告した。
死体にまみれて任務成功でござる!

籠城をしている敵方にとっては兵糧(食べ物)の在庫がどれほどの期間、持ちこたえられるかにかかっている。
甲賀衆は13つもの米俵を盗み出す功績も見せつけた。


しかし、、、この10名の甲賀衆。
関ヶ原の戦い以来25年も大きな戦がなかったからか、参戦した忍びのほとんどが実は60歳超えの翁が多かったからか、いくつか失態もしてしまっている。

総攻撃の前日、またも老中より命があり、城内の様子を探るよう申し付けられた。
望月、芥川という2人の忍者が城中へ潜入!

そ〜っと、城内を移動する2人。
すると望月さんが・・・

望月「うわーーーーーーっ!」

と、敵の仕掛けた落とし穴に落ちてしまったのでござる!

芥川「え、、、まじかよ!」

一揆衆「忍びのものじゃ〜!夜討ちじゃ〜!」

と散々に石やら松明やらを投げまくられる始末であったそう。
なんとか芥川は望月を助け、命からがら逃げ出したそうな。

また、別の機会には潜入に成功して、敵の作戦を盗み聞きできるポジションに位置どれた忍び衆。

甲賀忍者「ふふふ。。。盗み聞きしてやるぜ。。全て筒抜けだ!」

と思って耳をすませば・・・・

一揆衆「○×▲*‰∬≫♯@・・・」

甲賀忍者「・・・え!?なんて言ってんのこいつら!?」


なんと・・・方言がわからなくて何言ってるのかわからない。。
時たまポルトガル語とかも入ってくるものだから、もうチンプンカンプン。。
せっかく忍び込んだのに、何にも報告できるほどの内容は得られなかったのである。

ううむ。。カッコ悪い。。


最終的には、望月さんが落とし穴に落ちた次の日の総攻撃により、幕府軍は一揆を鎮圧することができた。

これが島原の乱とか、天草・島原一揆とか呼ばれているものでござる。

=====================
第15問 解答:④島原の乱
=====================

最終的には、この10名の甲賀忍者達は、死体の後片付け、埋葬などまでやったとのこと。
しかも江戸にも甲賀にも帰らず、島原の地で、隠れキリシタンとして暮らしたらしい。

もう甲賀にいても、江戸にいてもたいした忍びの仕事はできないと思ったのでござろうな。
食い扶持をつなぐのは大事である。

拙者も忍者でなんとか食い扶持をつなぎたいが、ダメだったら隠れキリシタンになろうっと!!

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刮目せよ!甲賀組の活躍

今回は、たまたま一人の忍者にまつわるエピソードが2問続けて出題されたため、2問続けて参ろう。
というか一問目の内容が、ちょっと問題として混乱を与える内容なので。。。
長めの説明が必要でござる。。

1回で2度おいしい、お得感のあるエントリであるぞよ!


本日は、山岡景久(道阿弥)と甲賀組に関する問題でござる。


第5回忍者検定 中級の部 第13問(配点1点)
============================================
本能寺の変直後、徳川家康が三河へ帰る際に、甲賀と伊賀の忍者が
援護したおかげで家康は無事帰ることができた。
家康はその恩に迎えいるため、伊賀の頭領服部半蔵に8千石を与えたが、
甲賀の棟梁山岡道阿弥にも旗本として知行を与えた。
その額は如何ほどか。

①6千石
②7千石
③9千石
④1万1千石
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続いて・・・

第5回忍者検定 中級の部 第14問(配点1点)
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慶長15年(1600)の伏見城籠城戦と大津城の戦いは、歴史上有名な
ある戦いの前哨戦であった。その戦いとは何か。

①応仁の乱
②姉川の合戦
③本能寺の変
④関ヶ原の戦い
============================================

これらの問題を解く上では、「山岡景久(またの名を道阿弥)」の存在、「伊賀越え」、「甲賀組」、「関ヶ原の戦いの背景」について知っておく必要がござる。
山岡家の家族も皆「景」の名がついて紛らわしいため、ここからは道阿弥とお呼び奉ることとしよう。



山岡道阿弥は甲賀の出身。
今でも続く伴家の一族でござった。
理由は不明だが、幼い頃は三井寺の僧となり、その後また訳あって普通の人に戻って織田信長に仕えた方。
これが1573年の頃でござる。
そして本能寺の変が起こる1582年、この時もまだ織田信長を主としていた。

明智光秀が本能寺で織田信長を死に追いやった時、信長との同盟関係にあった徳川家康は少ない家来を連れて、京の町を見物しておった。
明智光秀としては、無防備の徳川家康を討ち取る滅多とないチャンスである。
まさに王将を取ったのにも関わらず、ついでに飛車まで取れる絶好の機会!
戦国の世は、本能寺の変という一局だけでは終らず、そのあとどんどんと対局が待っているからのぉ。

通常の街道は明智軍に封鎖され、むしろそこまで迫ってきており、家康は三河に帰れなくなった。
家康としては・・・

「まずい!家来30人くらいしかいないし!!ってか観光中だったのに!」

という心境。
そらまずいでござるわ。。。

そんな中、伊賀出身(正確には父上が伊賀出身で本人は三河生まれ)の服部半蔵が、家康に伊賀を通って帰ることを進言する。

伊賀は数年前に、信長が天正伊賀の乱でフルボッコにされた集落。
信長には相当な恨みを抱いているに違いない。
実際、この前テレビで取り上げられていた百地家の御子孫は、やはり信長は嫌いだとおっしゃっていた。

その信長と同盟関係にあった家康だって危険かもしれない。。
半蔵よ。。。本当に伊賀から帰って大丈夫なのか。。
絡まれたりしないか。。。。

だがそこは忍者界でも一番の勇名を馳せているあの「服部半蔵」である。
忍者ネットワークは最強じゃ。
瞬く間に伊賀忍者のみならず、甲賀忍者まで、総勢500名の忍びどもを揃え、無事家康を三河まで護衛して送り届けたのでござる。

この一連の故郷帰りの話が、「伊賀越え」と呼ばれるものである。


さて、1問目の設問に戻ると、この伊賀越えの功績を讃えて服部家に8000石与えた、とし、甲賀の道阿弥にも知行を与えた、とするが、この流れでいくと

「山岡道阿弥も伊賀越えに参加してたの!?その功績で最低6000石以上はもらってたの?」

と思ってしまいそうである。

実際は、甲賀の忍びとして家康を案内をしていたのは、道阿弥ではなくてその父、景隆でござる。
道阿弥は兄の景隆とともに明智光秀軍の進路を封じるという活躍を見せていたご様子。
そういった意味では家康から恩賞をもらったとしても変ではないが、道阿弥は信長が亡くなってからというもの、秀吉の方についているのでござる。
よって、設問に書いてある「旗本として」というのは違うであろう。
このタイミングで家康の傘下についていないのに、褒美を本当にもらえたかどうかはわからないし、伊賀越えの一番の勲功者である半蔵が8000石なのに、6000石以上もらえるということもないであろうし。。

このため、設問に言う山岡道阿弥が家康からいただいた知行は、伊賀越えのときの半蔵のそれとは時を違えていることに気付けないと、「え、そんなんわからんわ。。」となってしまう問題なのでござる。

いやらしい、、、いやらしいぞ、この問題!
ってかあんまちゃんと考えて文章が作られていないぞ!
もう少し純粋に知識を問う問題作りをしてもらいたいものでござるよ…
悪問なり。。。


信長亡き後、山岡道阿弥は秀吉のお伽衆(話相手)として仕えることとなる。
そしてその秀吉も没した後に、山岡道阿弥は家康に接近し、家康の家臣となった。

しばらくは秀吉の子、豊臣秀頼の天下の元、家康や秀吉子飼の知将・石田三成などが五大老としてこれを補佐していたが、家康が段々と猛威を奮い、台頭するようになった。

家康は、城を整備した上杉景勝に難癖をつけて再三上洛を命じたが、景勝はこれを拒否。
なぜだ!
と家康は上杉家に弁明を求めるも、直江兼続による喧嘩を売るような書状「直江状」が届き、憤慨した家康は上杉征伐を敢行した。
この時、道阿弥は家康に付き従って上杉征伐軍に参加している。

ここでなんと、家康が北上しているスキをついて、石田三成が毛利輝元を総大将として挙兵!

しかし、山岡道阿弥はこれを読んでいた。
家康と上杉征伐に出る前に、弟の景光に「三成に不信な動きあらば伏見城に入れ」と予め言い伝えてあったのだ。
弟の景光は、これを受けて予め伏見城を甲賀忍者100人で守り固めていた。

道阿弥は三成が挙兵したことを聞くと、すぐさま伏見城を守る甲賀勢にこう伝えた。

「忠節を尽くすのは今ぞ。甲賀の者はすぐに伏見城に駆けつけよ!」

こうして伏見城に集まった甲賀忍者は300人余り。
家康はこの伏見城は捨てるつもりであったため、籠城戦となった。
これが「伏見城籠城戦」である。

家康の重臣・鳥居元忠が本丸に入り、籠城した兵の数は約1800。
一方、押し寄せる西軍の兵はなんと4万。
いくら落とすのが難しい籠城戦であっても、この数の差であれば1日で決着が着く予定であった。

しかし、10日絶っても伏見城は落ちない。
そう、甲賀忍者達の活躍によるものであった。

だが、そのわずか数日後、ついに伏見城は落城したのだが、これも甲賀忍者達によるものであった。

伏見城を攻めていた長束正家は、東軍方の甲賀忍者の一部に内応を打診した。
甲賀勢が守る付近に矢文を放ったのである。

ー 城の内部から火をつけよ。さもなくば・・・妻子を磔にする ー

これに焦るは甲賀忍者。
約40名が裏切り、伏見城の内部あちこちから火の手が上がったのでござる。
鳥居元忠達は奮戦するも、むなしく討ち死。。
こうして伏見城籠城線は、甲賀忍者の裏切りにより終了したのである。

勢いに乗った石田三成ら西軍は東へ軍を進め、一方、徳川家康ら東軍は急ぎ西へと戻る。
そうして両軍は岐阜県の関ヶ原にて対峙し、かの有名な関ヶ原の戦いが起こるのでござった。

よって解答は前後するが、第14問の答えは「関ヶ原の戦い」でござる。
=====================
第14問 解答:④関ヶ原の戦い
=====================


この時、山岡道阿弥自身は伏見城にはいなかったが、たまたま帰る途中に、敗走中の長束正家の軍に出くわした。
伏見城の戦いの折りに、甲賀忍者を散々な目に遭わせた長束氏・・・
道阿弥は恨みを晴らさでおくべきか、長束正家をめった打ちにしたという。

これらの功績もあり、山岡道阿弥は徳川家康から9000石の恩賞をいただき、更に甲賀の同心100人を預けられた。
この100人の道阿弥甲賀軍団を「甲賀百人組」というのでござる。

よって、知行として与えられたのはこのタイミングであり、9000石ということですやね。
=====================
第13問 解答:③9千石
=====================

余談だが、関ヶ原の戦いの勝敗の鍵となったのは小早川秀秋の裏切りとされているが、実はこの裏切りの手はずを整えたのは、この山岡道阿弥なのである。
昔道阿弥が秀秋からもらった珍しい色の腰当を、道阿弥の家臣2人に持たせて、秀秋の裏切りを確約させた。

天下分け目の戦いに、忍びが水面下で活躍していたということ。
有名な歴史の背景には忍びの働きがあったと考えると、ロマンはつきませぬな!


それにしても問題はちゃんと作ってほしいでござるよ・・・・

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