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甲賀伴家忍者・川上仁一先生講演! 〜三重大学伊賀忍者講座・忍者の身体〜

さて、恒例の三重大学の定例講座、今日も行って参ったでござる!
今回の遠征は都合により独り日帰りとなったので、ただいま電車の中から即日更新ですw

今年度より「忍術書を読み解く」というテーマでスタートする全6回の講座。
2013年度の記念すべき第一回目は、なんとあの最後の忍者と言われた、川上仁一先生が教鞭を振るう!

今回のタイトルは「忍者の身体」。
小さい頃から甲賀流忍法を叩き込まれてきた川上先生の話だ。
楽しみにならないわけがないでござろうw

忍者になるための身体作りはどう行われ、結果としてどんな術を身につけることができるのか。
忍術を扱うためには何が必要となってくるのか。

そんな喉から手のみならず、肩くらいまで出てくるほど知りたい知識を、残っている忍術書と川上先生の経験から惜しげも無く披露された神懸った回でござった。

ポイントだけまとめてしまうと以下のとおり。

・まず健康な身体、知性、敏捷性、忍耐力、そして正心が必要。
・人間の生体的限界を越えるようなことは、基本的に忍者だってできない。
・あっと驚くことを見せられたら、大体は法術や奇術といった類いのものであり、本当にできるわけではない。これは忍術でも奥義でもなんでもない。
・だが、無理だと思っていても意外とやってみるとできることがたくさんある。
(身体に針100本刺すとかw)
・一番重要なのは、本来できるけどやるには勇気がいることをやりぬく「精神力」と「日々の鍛錬」である。
・どんなに秘伝を教わって頭でわかっても、鍛錬によって身体に染み込ませなければ動けない。
・そして用いる術は、絶大に信頼できるものでなければならない。伝統的なものはやっぱり強い。
・トレーニングの際は、まず基本は言われたとおりに身につける。そして自分なりに変えてみて、一気に爆発させる(序▷破▷急)
・忍術は現代には即さないものが多いが、自分なりに応用できるものを取り入れたらよいのではないか。


具体例として、忍者の仕事に必要な指の力の鍛え方とか、肩の外し方とか、忍術の基本を、動作を交えて教えてくださった。
こんな貴重なのはなかなかない。
非常にいろんな気づきを与えてくれた講義でござった!!

やっぱりそんなに人間離れせず、ヒトの身体の構造や習性、心理などを活かしたものが忍術なんだな、って、嘘の忍術と本物の忍術の境界線?なるものがだいぶハッキリしてきたでござる。
ほんと何時間もかけて伊賀に行ってよかったって思える収穫でした!

で、もう一つ得られた収穫は、今武蔵一族の忍術教室で教わっているのも、同じことだったってこと。
毎週第4土曜日に頭目が教えてくれている忍術教室で一度教わった「跳躍するとき」「通常のとき」の呼吸や重心の使い方の話が、今日川上先生がおっしゃったことと全く一緒だった。
おそらく川上先生と頭目はお会いしたことはないと思うが、甲賀流忍術と同じで、武蔵流忍術も原理に基づいた本物の忍術であり、それを教えてくれているのだと確信した。
東京でこれが学べるなんて、本当にありがたいと思ふ。

来週は忍術教室なので、こっちも楽しみにして参ろう〜!!



ちなみに余談だが、この講座に出席するために伊賀鉄道に載ってきたのだが、会場についたとき
「か、、、会社から貸与されている iPhoneがない・・・」
ことに気づいてしまった。。
どうやら伊賀鉄道の車両内に落としてきてしまったようだ。。
なくしたら顛末書ものなので、めっちゃ気になってあんまり講義も頭に入らんかったでごわすw

講義が終わったら速攻伊賀上野駅に向かい、おそるおそる駅員さんに聞いてみると、、、
なんと届いておりました!!!
助かった〜(涙)

誰だかわからないけど、届けてくれた人、ありがとうございました!!!
東京だったらまぁ間違いなくしばらくは帰ってこなかったでしょう。。
まさか1時間半の間にすぐに手元に戻るとは・・・!

反省すべき点ではあるが、今回のことで伊賀のこと、伊賀の人々のこと、もっと好きになりました!
伊賀の人々に正心は根強く生きづいているようです。
これからも拙者が協力できることはしていきたいと思いまする!!

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伊賀忍者講座出席! 〜海外から見た日本の忍者〜

週末はまたも伊賀まで遠征して参り、今朝奈良から夜行バスで帰って来たでござる!
午後から仕事いかなきゃだけど、洗濯とかしながら少し更新いたす!
今回もすっごくてんこ盛りで楽しかった〜

今週はちょっとモタモタしてて安い夜行バスが取れずに、土曜日の始発で新幹線で伊賀へ。。
やっぱ新幹線で快適だけど高いっ!
ほんとギリギリの到着となり申した。

今回は、前回の「赤目四十八滝修行」でも一緒に遊びまくった豹捕さんが講師です!
テーマは「海外から見た日本の忍者」。
ロシアから日本の大学に留学してきて、日本語で講義することなんて凡人にはなかなかできないこと。
普通に過ごしてたら絶対に出会えないような人と仲良くなれたなんてホント嬉しいっす!

ハイトピア伊賀に着くと、池田先生からこの前の東京調査に関する報酬を頂きました。
中身は秘密ですw
そして続々とやってくるおなじみの伊賀之忍砦メンバー。
いよいよ講義のスタートでごわす!

【こんにちは、フョードルです】


講師ということでスーツに身を固めたクバーソフ・フョードル氏。
緊張が目に見て取れます。
頑張れ!!

内容としては非常に興味深いもので、海外で忍者が初めて出て来たのはいつか、そこから派生してブームとなっていた「Ninja」の小説、映画作品から、海外におけるNinjaのイメージを解説するものでした。
なんと、アメリカにおいて初めて忍者が登場した作品は、あの「007」らしい!
そこからいろんな作品に登場してきたのだとか。
ただしそれは、「スパイ」的な役割のものではなく、「暗殺者」であったり、「めちゃめちゃ強い格闘家」としての役割を描かれる場合が多いとのこと。
しかも現代の中の存在として描かれることがほとんどであるとのこと。
そのため、日本にもまだ忍者がいるという認識を持った人が多いらしいっす。
いろんな作品の例を出しながら、そんなイメージであることを裏付けていってくれました。

その後アメリカだけでなく、ヨーロッパや南米、アジアなどでも忍者作品が作られて行くわけだが、それらの国はみんなハリウッド映画を見て忍者のイメージをインプットするため、なんと「忍者は日本の文化」というのもほとんど知らないそう。
なんとなく東洋あたりにいるらしい、くらいしかイメージないんだって。。
これはびっくりしたわ。

概要としてはこんな感じでござる。
海外の人たちが忍者についてどういう視点で見ているのか、だいぶクリアになりました!

三重大学では海外で忍者が出てくる作品のデータベースも作成しているとのこと。
少し見せてもらったが、相当出てくる出てくる。
何百という作品があるのだが、その中でもちゃんとした忍者を解説しているものは20冊くらいしかないらしいね。
途中で海外の忍者アニメや本を見せてくれたのだが、どこか間違っていたり、なんにも中身のないものだったり、ちょっと滑稽で面白いのと同時にちょっとした歯痒さを感じるものでござった。

きっと大半の日本人もこんなイメージだろうし、それが悪いことじゃないんだけど、もっと地に足のついた忍者像を広めないともったいないな、って思った。
そんな暗殺とか格闘よりももっと面白い特性とか技術があるんだから。

まだまだ伸び代もある存在なんだな、って考えさせたられた瞬間でした。
海外に本当の忍者、短絡的でない本当の忍者をもっと浸透させたいところでござるね。

そのためにこれから自分で何ができるのか、しっかりと考えていき、実行していきたいところである。

何はともあれ豹捕さん、お疲れ様にござりました!

来月の講義はあの川上先生の講義。
非常に楽しみにて候!

つづく

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服部半蔵ゆかりの地巡り 〜半蔵門と四谷〜

本当は今日は予定があったのだが、急遽なくなってしまったのでいざ、野外調査へ!
池田先生から受けたミッション第2段にござる。

今回のミッションは、
・半蔵門
・服部半蔵の墓
・長善寺
の写真を撮ってくることでござった。

まずは早朝から半蔵門線に乗り込む。
「半蔵門」が服部半蔵に由来していることと、線路のイメージカラーが拙者の大好きな「紫」であることから、拙者は半蔵門線沿いの駅に住んでいるw

「なんでそんなとこに住んでるの?」

って普通の人に聞かれて

「そりゃ紫で半蔵だったらこの路線しかないっしょ」

と答えると、変人扱いまっしぐらなので最近は気をつけるようにしておりまする。


半蔵門はその名のとおり、江戸時代に服部半蔵率いる伊賀組が警護した、城の西側の門のことをいう。
伊賀の与力30名、同心200名がこの門の前に旗本屋敷をズラっと構えていたらしい。

東京メトロ半蔵門線の「半蔵門」駅を降り、徒歩3分くらいで半蔵門が見えて参る。
皇居ランナー達が走っている中、拙者はカメラを構えて突進していくのでござった。

【交差点も半蔵門】



【向こうに見えるぞ半蔵門】


【誰か出て来た半蔵門】


【こっちの堀は「半蔵堀」というらしい】


皇居の護衛官の目もちょっと気になりながらパシャパシャ撮影し、すごすごとその場を後にしやした。
もっと近くに行かせてくれてもいいのに・・・
まぁ昭和の頃の学生運動の過激派がここにロケット弾を打ち込んだらしいしね。。
そりゃそう昔でもないし、警戒するか・・・
桜田門といい、坂下門といい、江戸城の周りではいろんな血が流れておりまするからな。。


次に向かったのは、服部半蔵の墓がある「西念寺」。
こちらはJR四谷駅から歩いて5分ほどのところにござりまする。

【四谷駅】


西念寺は大学生のときに来て以来。
きれいな梅が咲いておりました!

【都会の中の路地奥に、ひっそりとある西念寺】


【なんか前来たときより車多いぞ・・・】


今日はなんと法事があって、この辺りお墓参りをしている人がごまんとおりました・・・
西念寺にいた坊さんに
「半蔵の槍って見せてもらえないでしょうか・・・」
と聞いたら
「今日は法事なんで別の機会ならいいですよ〜」
ということで。。。

くぅ〜!
タイミング悪し!!

まぁ近いしまた今度くることにしよう!

気を取り直して服部半蔵正成のお墓にお参り!
やっぱりあの半蔵さんがここに眠っていると思うと何かこみ上げるものがござります。

【服部半蔵正成のお墓】


服部半蔵が若かりし頃、家康が信長から長男・信康の切腹を命じられた折、その介錯を半蔵が担当することになってもうた。
しかし、半蔵は涙を流して
「拙者にはできませぬ・・・」
としてとうとう介錯はできなかったらしい。

それを見た家康も、
「うむうむ。そこまで信康のことを思ってくれているとは・・・」
と半蔵に絶大な信頼を寄せることになったといふ。

そのあと代わりに引き受けた介錯人が誰かは知らぬが、その人が可哀想じゃないか?w

そうして半蔵が信康を供養するために建てたのが、この西念寺でござる。
本堂の裏には信康の供養塔も建っているのでこちらも要チェック!

【新宿の街を一望する信康供養塔】



「槍もそこにあるのに・・・!」
と後ろ髪を惹かれる思いで西念寺を後にした拙者は、歩いて次の「長善寺」へ向かった。


「長善寺」も江戸時代の服部半蔵にゆかりのある寺なのでござる。
といってもこっちは西念寺に眠っている半蔵ではなく、二代目の服部半蔵。

服部半蔵正成の後を次いだ服部半蔵「正就」は、父親からそのまま伊賀同心200人を受け継いだ。
この正就、特に苦労もせずこんな偉い地位についている。
そんなだから、伊賀同心達をあたかも家来のように扱い、なかなかに無理な働きをさせたため、伊賀の組の者達はこれに不満を持ち始める。
これが溜まりに溜まり、その同心達は一発念揆して、長善寺に立てこもってクーデターを起こしたのだ!

その立てこもり現場に向かおうとしていたのでござる。
長善寺は今は「笹寺」という名称に変わっている。
その笹寺は、西念寺からほんの少し離れたところにある。
歩いても5分もしないで行けるところだ。

しかしそこから1kmほど離れたところに、今でも「長善寺」として建っているお寺がある。
拙者は完全にそっちだと思ってそっちに行ってしまったのでござった!!

【長善寺(こちらは別の宗派の寺でした)】




なんか事前に見てた写真と違うな〜と思ったけど、まぁいいか、と家に帰ろうと電車に乗る拙者。
でもやっぱり変だな。。
と思い直しiPhoneで調べてみたら、やっぱり違う場所だったw

ちきしょう!!
皆の衆は間違えないようにご注意なされませ・・・

結局戻って笹寺(長善寺)へ向かい申した。
ここでも絶賛法事中で、車がたくさん止まってていいポジションから写真が撮れず。。。
しかも丸刈りのおっさんがずっと本堂の下に立ってて、どうしても被写体として入ってくる。。
なかなかに自分では納得のいかないアングルになってしまったが、こんな感じでござる。

【立てこもり現場の長善寺(笹寺)】



今回はいろいろとタイミングの悪い調査になってしまったので、次また時間ができたらちゃんとやりまする。。

この辺りの郷土史を調べてもうちょっと詳しく知っておきたいでござるな。
こんな近くに忍者ゆかりの地があるなんてすごい。

忍者の有名な地域は各地にあるけど、東京に住んでいないとできないことをこれからも主眼にしてやっていこうと思いまふ。
それこそ半蔵の偉業を超えるくらいの!!

そして、拙者が死んだ頃には「半蔵門」も「嵩丸門」になっていることでしょうな。
嵩丸門線・・・
乗りたくねーw

【西念寺は四谷駅から】


【長善寺(笹寺)は四谷三丁目駅から】

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東京に残る伊賀衆の息吹 〜練馬区(旧橋戸村)探索〜

今日はあったかくて気持ちよかったものの、花粉が飛びまくって飛びまくってもう災難でござった。。
さっき連続30回くしゃみをしてしまったところでござる。
つらいっす。。

江戸だか戦後だかでスギの植林があってからこんなことになったので、戦国時代とかは花粉症はなかったはず。
だから、忍者も春先に屋根裏に潜んでても大丈夫だったのでしょうな!
床下でくしゃみ止まらなくなったと考えたら恐ろしくて仕方ないw


さて、今日は午前中古文書講座を受講したのち、午後にとある忍務を行って参りました!
先日の伊賀遠征のとき、池田先生から仰せ使った任務。。

それは、、、
江戸における伊賀衆の形跡にまつわる調査でござる!!

伊賀衆が江戸時代に今の四谷辺りに屋敷を構えたことは知っていた。
大学生のときに服部半蔵の墓がある「西念寺」には行っていて、いろいろ思いを馳せながらそこで一時間くらい墓の前で座っていたw
当時は暇だったにせよ、何してんだろうなぁw

しかし池田先生情報によると、もともと家康の江戸入府に伴ってきた伊賀衆が知行としていただいたのは、今の練馬区大泉町あたりにあった「橋戸村」であった。
これを知らなかったのは不甲斐ない。。
ってか大学生のとき1年くらい練馬区の隣の板橋区に住んでたのに・・・笑

まぁ気を取り直して早速行ってきたでござるよ!!


都営大江戸線で新宿から20分くらいにある「練馬春日町」に降り立った拙者。
練馬区特有の完成な住宅街を歩いて15分くらいであろうか。
とある神社が見えてきたでござる。

【静かな町中にある神社】


【高松御岳神社にござります】


【看板を読むと・・・】


【気になる記述が!!】


なんとあの服部半蔵が寄贈した仁王像があるらしい!!!

さっそく鳥居をくぐって中に入り、まずはお参り。
そして辺りを見渡してみると・・・

【なんかいる!!】


こいつが。。。
こいつらが仁王像だ〜!!






※ちょっとぼかしていい感じにしてみましたw

もちろん仁王のできの良さもいいのだけど(あんまようわからんけど)、忍者にとっての一番要チェックポイントはそこじゃない!
真実は後ろに隠されているのであ〜る!

【背後をとってやったぜ】


【「服部半蔵」の文字が!!】


【こっちにも!!】


これは確かに服部半蔵ですな。

本当はここから北へ150mくらいいったとこに「高松寺」というところがあり、そこに寄贈されたらしいのだが、明治に廃寺となってこっちに移設したらしいどえす。

今立っているところに伊賀の忍び達が、、、知行だから違うかもだけど少なくとも、かの服部半蔵が来ていた場所だと考えるとロマンを感じざるを得ないっす。
もっと早く気づいてればよかったっす。


そこからさらに練馬IC辺りまで30分ほど、西の方へと歩いていったでござる。
目指すはIC横にある氷川神社!
ここにもワクワクするようなものがあるようだぞ。

【自転車屋さんのとなりにあります】


【階段上ります】


【立派な社殿!】


ここでもまずは盛大に柏手を打ち、お参りをすませて周りを見渡すと・・・

【キター!!!】




なんと伊賀衆が奉納した水盤(手を洗う石)と鳥居があるようです!!



奉納された水盤には伊賀の衆がここに来た経緯が記されているようだ!
が、、肉眼じゃないと見えない。。ってか肉眼でもだいぶ薄かった。。

鳥居にはそのときの伊賀衆の名前108人の名が綴られているとのことなのだが、鳥居は倒れてしまい、其の字も読めない。。

【ふえ〜ん・・・】


何が書いてあるのかはどうしても知りたかったので、社務所の神主さんにお願いしてみたら、何が記載しているかの資料をいただきました!
(漢文だけど。。。)

内容としては、ざっと意訳でこんな感じ。
明智光秀の乱(本能寺の変)によって、危なくなった家康公を伊賀経由で三河まで送り届けた(伊賀越え)ことから、その功を称されて伊賀者が武蔵国に知行を賜ったのが伊賀の党の始まりである。
稲荷大明神(氷川神社の境内社として祭ってある)の改修のときに、その子孫である伊賀衆108人が力をあわせて頑張ったので、その名前を彫って、これを子孫に告げようと思う。
嘉永二年二月七日


武蔵一族のご先祖様は家康公入府とともに伊賀から来たと代表がおっしゃっていたので、(柴田姓ないかな、、)と内心期待していたのだが、嘉永二年だと柴田家は既に小石川にいて徒目付だったはずだから、ここに名前がないのは当然ではある。
いったいどのタイミングで小石川にいったんだろう。。
まだまだ調査が必要でござるな!

その後練馬の図書館で郷土資料を読んで、橋戸村についての調査をいたしやした!
あんまりいい資料は残ってなかったけど、確かに服部石見守がその土地を治めていたことが確認できたでござる!
なんかこうやって歴史を紐解いていくのって楽しい!!


忍者の皆様、東京にお立ち寄りの際はぜひともお参りしていってくんさいまし〜。

■高松御岳神社
練馬区高松3-19


■大泉氷川神社
練馬区大泉町5-15-5

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研究途中報告 〜武蔵一族忍者とその他忍者の違い〜

前回なんか暗いエントリを書いてしまいまして、失礼いたし申したw

会社の仕事もそうだけど、それよりも忍者関連研究に風呂敷を広げすぎてしまい、あわあわしているでござるw
ブログの更新が滞ってしまっていて申し訳ござらん!
仲間のしころちゃんや千さんがブイブイ忍者活動をしているブログ記事を見て羨ましさ3000点でござります。。

現在、なぜか普通の忍者調査からちょっと外れた調査ばかり行っているでござる。

1つは、江戸時代において暗躍した忍者の実情。
もう1つはくのいちが扮した巫女達の実情。

どれもそんなに忍者としての研究としては、深く触れられていないテーマだと思ふ。

1つ目については、先日、武蔵一族の代表・朱雀さまから承った特別任務で、徳川幕府の隠密についてさらに詳細な調査を行うことと相成り申した。

一族ご祖先で、外国奉行であった柴田貞太郎剛中様。
この方の生涯とあたった任務を調べている真っ最中でござる。
最終的には幕末に臨時でできた役職・外国奉行として大活躍され、文久2年の遣欧使節団で福沢諭吉ともヨーロッパに渡ったほどのお方。
そこに至るまでは評定所(今でいう最高裁判所)の職員をされていたり、外国奉行と兼務して大阪や神戸の町奉行も担当していたご様子。
これらは江戸の町奉行と区別するために「遠国奉行」と呼ばれたのでござるが、その職務としては、その町の行政、交易、治安維持、寺社管轄など、すごく多岐に渡っていた。

それに江戸の町奉行というのは相当に多忙だったらしく、過労死率20%ほどだったらしい。
江戸の町奉行だけでそんなだったのに、大阪と神戸の町奉行、外国奉行を兼務していた柴田剛中は、相当に切れ者だったのでござろう。
一体どうやって仕事をこなしていったのか、と研究熱が高まるでござるよ!!

ということで、徳川幕府における司法制度や警察制度を紐解いているところにござります。
おそらく犯罪者を捕まえたり、情報収集をするにあたって、忍術を使っていたはずだと仮定して...

すると、、、
あかん、おもろいw

忍者とは外れるが、もともと拙者は法学部卒で今も法律関係の仕事をしているため、裁判ものや刑事ものが大好物なのでござる。
江戸時代における司法システム、行政システムに至るまで、今と違いすぎてぶったまげることも多い。
例えば、犯罪者を町奉行の同心・与力の下に岡っ引きや目明しとして雇って、検挙率に応じて罪を軽くしてやるシステムなど、いかにも冤罪が多発しそうなシステムもあったらしい。
実際に保身目的に罪をでっち上げる者が多く、冤罪は多発していたようでござる。

きっとあらゆるところで言っていたのでござろうな。
ー それでも拙者はやってない
と。


さて、本題に戻すとして・・・・

何よりもおもしろいと感じたは、現代の武蔵一族が所有している武器と資料のつながりが見えたところ、そしてそこから伊賀や甲賀、戸隠にはない「独自忍術(?)の存在」について諸々考えが浮かび上がって来たことでござる。

我が一族の田端の道場には、これでもかっ!!っていうくらい、たくさんの武器が展示してある。
最初に道場に伺ったときはおったまげたものだ・・・

でも、最初に訪れてからずっとおかしいな、と思っていたことがあって、それまで伊賀とか甲賀とか戸隠の忍術資料館にいっても、絶対に展示されていないような武器が結構存在するのだ。

それが「捕物」関連の武器なのでござる。

時代劇などで「御用だ!」と叫びながら走り回る岡っ引きが持っていて、一番有名なのは「十手」だろう。
そして一族の忍びの証としてみんな持っている「万力鎖」も、実は捕具なのである。
※ちなみにこの前道場に置いて来てしまった!どっかにあるかなぁ。。

他にも「さす股」「鉄棒」「袖がらみ」「角手」「鉄拳」など、一般の忍者資料集などには載っていない武器が山ほど展示されているのでござる。

最初に道場に訪れたときに
「し、、、知らない忍具がこんなにある・・・」
と、当時ショックを受けてあらゆる忍者の資料を探したけど、載っていなかった。

で、上述した研究を進めるために「江戸の司法警察辞典(柏書房)」を読んでみたら・・・

載ってる載ってる!!
道場にある武器ほぼ全部載ってるやん!

という興奮が押さえられんでござった。


「いやいや、忍者とあんまカンケーないじゃん(汗」
と最近まで拙者はそう思っていた。

しかし違うのだ。
既存の忍者像の枠が広がったと考えるべきなのだ。

徳川幕府お抱えの忍者として活躍した武蔵流忍術と、その他地域の忍術との決定的な違い。

それはそう、正義の忍術としての一面なのでござる。

町にはびこる悪党どもを捕えるため、世の中の平和を維持するため、そのために使われた忍術なのだ。

その他の忍者は戦国時代が活躍のピークだった。
江戸時代初期には甲賀百人組(その職務は情報収集でなくて鉄砲隊)として士官した甲賀忍者も、江戸時代中期以降は何度も士官させてくれ、と頼んでいたくらいだ。

しかし、武蔵忍者は平和な時代である江戸時代においてこそ、その実力を発揮して来た。
江戸〜幕末にかけて、唯一活躍した忍者なのではなかろうか。

忍者と言えば戦国時代だし、拙者も戦国時代におけるあらゆる謀略、暗殺などでの活躍に憧れて忍者に興味を持った。

江戸における平和な時代で悪を懲らしめる忍者像、そして外国諸国と渡り合う忍者像というのは、拙者も想像していなかったし、ほかの誰も想像していなかっただろう。
これって既存の凝り固まった忍者像に、さらなる拡張を持たせることができるのではないだろうか。

それがアピールできるのは、きっと伊賀でも甲賀でもなく、武蔵のみ。
非常におもしろいところに属させていただいたな、と心底思ったので、ブログ書いてみました。

この辺ももっと資料収集して、江戸忍者の活躍を証明していきたいでござる!

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