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刮目せよ!甲賀組の活躍

今回は、たまたま一人の忍者にまつわるエピソードが2問続けて出題されたため、2問続けて参ろう。
というか一問目の内容が、ちょっと問題として混乱を与える内容なので。。。
長めの説明が必要でござる。。

1回で2度おいしい、お得感のあるエントリであるぞよ!


本日は、山岡景久(道阿弥)と甲賀組に関する問題でござる。


第5回忍者検定 中級の部 第13問(配点1点)
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本能寺の変直後、徳川家康が三河へ帰る際に、甲賀と伊賀の忍者が
援護したおかげで家康は無事帰ることができた。
家康はその恩に迎えいるため、伊賀の頭領服部半蔵に8千石を与えたが、
甲賀の棟梁山岡道阿弥にも旗本として知行を与えた。
その額は如何ほどか。

①6千石
②7千石
③9千石
④1万1千石
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続いて・・・

第5回忍者検定 中級の部 第14問(配点1点)
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慶長15年(1600)の伏見城籠城戦と大津城の戦いは、歴史上有名な
ある戦いの前哨戦であった。その戦いとは何か。

①応仁の乱
②姉川の合戦
③本能寺の変
④関ヶ原の戦い
============================================

これらの問題を解く上では、「山岡景久(またの名を道阿弥)」の存在、「伊賀越え」、「甲賀組」、「関ヶ原の戦いの背景」について知っておく必要がござる。
山岡家の家族も皆「景」の名がついて紛らわしいため、ここからは道阿弥とお呼び奉ることとしよう。



山岡道阿弥は甲賀の出身。
今でも続く伴家の一族でござった。
理由は不明だが、幼い頃は三井寺の僧となり、その後また訳あって普通の人に戻って織田信長に仕えた方。
これが1573年の頃でござる。
そして本能寺の変が起こる1582年、この時もまだ織田信長を主としていた。

明智光秀が本能寺で織田信長を死に追いやった時、信長との同盟関係にあった徳川家康は少ない家来を連れて、京の町を見物しておった。
明智光秀としては、無防備の徳川家康を討ち取る滅多とないチャンスである。
まさに王将を取ったのにも関わらず、ついでに飛車まで取れる絶好の機会!
戦国の世は、本能寺の変という一局だけでは終らず、そのあとどんどんと対局が待っているからのぉ。

通常の街道は明智軍に封鎖され、むしろそこまで迫ってきており、家康は三河に帰れなくなった。
家康としては・・・

「まずい!家来30人くらいしかいないし!!ってか観光中だったのに!」

という心境。
そらまずいでござるわ。。。

そんな中、伊賀出身(正確には父上が伊賀出身で本人は三河生まれ)の服部半蔵が、家康に伊賀を通って帰ることを進言する。

伊賀は数年前に、信長が天正伊賀の乱でフルボッコにされた集落。
信長には相当な恨みを抱いているに違いない。
実際、この前テレビで取り上げられていた百地家の御子孫は、やはり信長は嫌いだとおっしゃっていた。

その信長と同盟関係にあった家康だって危険かもしれない。。
半蔵よ。。。本当に伊賀から帰って大丈夫なのか。。
絡まれたりしないか。。。。

だがそこは忍者界でも一番の勇名を馳せているあの「服部半蔵」である。
忍者ネットワークは最強じゃ。
瞬く間に伊賀忍者のみならず、甲賀忍者まで、総勢500名の忍びどもを揃え、無事家康を三河まで護衛して送り届けたのでござる。

この一連の故郷帰りの話が、「伊賀越え」と呼ばれるものである。


さて、1問目の設問に戻ると、この伊賀越えの功績を讃えて服部家に8000石与えた、とし、甲賀の道阿弥にも知行を与えた、とするが、この流れでいくと

「山岡道阿弥も伊賀越えに参加してたの!?その功績で最低6000石以上はもらってたの?」

と思ってしまいそうである。

実際は、甲賀の忍びとして家康を案内をしていたのは、道阿弥ではなくてその父、景隆でござる。
道阿弥は兄の景隆とともに明智光秀軍の進路を封じるという活躍を見せていたご様子。
そういった意味では家康から恩賞をもらったとしても変ではないが、道阿弥は信長が亡くなってからというもの、秀吉の方についているのでござる。
よって、設問に書いてある「旗本として」というのは違うであろう。
このタイミングで家康の傘下についていないのに、褒美を本当にもらえたかどうかはわからないし、伊賀越えの一番の勲功者である半蔵が8000石なのに、6000石以上もらえるということもないであろうし。。

このため、設問に言う山岡道阿弥が家康からいただいた知行は、伊賀越えのときの半蔵のそれとは時を違えていることに気付けないと、「え、そんなんわからんわ。。」となってしまう問題なのでござる。

いやらしい、、、いやらしいぞ、この問題!
ってかあんまちゃんと考えて文章が作られていないぞ!
もう少し純粋に知識を問う問題作りをしてもらいたいものでござるよ…
悪問なり。。。


信長亡き後、山岡道阿弥は秀吉のお伽衆(話相手)として仕えることとなる。
そしてその秀吉も没した後に、山岡道阿弥は家康に接近し、家康の家臣となった。

しばらくは秀吉の子、豊臣秀頼の天下の元、家康や秀吉子飼の知将・石田三成などが五大老としてこれを補佐していたが、家康が段々と猛威を奮い、台頭するようになった。

家康は、城を整備した上杉景勝に難癖をつけて再三上洛を命じたが、景勝はこれを拒否。
なぜだ!
と家康は上杉家に弁明を求めるも、直江兼続による喧嘩を売るような書状「直江状」が届き、憤慨した家康は上杉征伐を敢行した。
この時、道阿弥は家康に付き従って上杉征伐軍に参加している。

ここでなんと、家康が北上しているスキをついて、石田三成が毛利輝元を総大将として挙兵!

しかし、山岡道阿弥はこれを読んでいた。
家康と上杉征伐に出る前に、弟の景光に「三成に不信な動きあらば伏見城に入れ」と予め言い伝えてあったのだ。
弟の景光は、これを受けて予め伏見城を甲賀忍者100人で守り固めていた。

道阿弥は三成が挙兵したことを聞くと、すぐさま伏見城を守る甲賀勢にこう伝えた。

「忠節を尽くすのは今ぞ。甲賀の者はすぐに伏見城に駆けつけよ!」

こうして伏見城に集まった甲賀忍者は300人余り。
家康はこの伏見城は捨てるつもりであったため、籠城戦となった。
これが「伏見城籠城戦」である。

家康の重臣・鳥居元忠が本丸に入り、籠城した兵の数は約1800。
一方、押し寄せる西軍の兵はなんと4万。
いくら落とすのが難しい籠城戦であっても、この数の差であれば1日で決着が着く予定であった。

しかし、10日絶っても伏見城は落ちない。
そう、甲賀忍者達の活躍によるものであった。

だが、そのわずか数日後、ついに伏見城は落城したのだが、これも甲賀忍者達によるものであった。

伏見城を攻めていた長束正家は、東軍方の甲賀忍者の一部に内応を打診した。
甲賀勢が守る付近に矢文を放ったのである。

ー 城の内部から火をつけよ。さもなくば・・・妻子を磔にする ー

これに焦るは甲賀忍者。
約40名が裏切り、伏見城の内部あちこちから火の手が上がったのでござる。
鳥居元忠達は奮戦するも、むなしく討ち死。。
こうして伏見城籠城線は、甲賀忍者の裏切りにより終了したのである。

勢いに乗った石田三成ら西軍は東へ軍を進め、一方、徳川家康ら東軍は急ぎ西へと戻る。
そうして両軍は岐阜県の関ヶ原にて対峙し、かの有名な関ヶ原の戦いが起こるのでござった。

よって解答は前後するが、第14問の答えは「関ヶ原の戦い」でござる。
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第14問 解答:④関ヶ原の戦い
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この時、山岡道阿弥自身は伏見城にはいなかったが、たまたま帰る途中に、敗走中の長束正家の軍に出くわした。
伏見城の戦いの折りに、甲賀忍者を散々な目に遭わせた長束氏・・・
道阿弥は恨みを晴らさでおくべきか、長束正家をめった打ちにしたという。

これらの功績もあり、山岡道阿弥は徳川家康から9000石の恩賞をいただき、更に甲賀の同心100人を預けられた。
この100人の道阿弥甲賀軍団を「甲賀百人組」というのでござる。

よって、知行として与えられたのはこのタイミングであり、9000石ということですやね。
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第13問 解答:③9千石
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余談だが、関ヶ原の戦いの勝敗の鍵となったのは小早川秀秋の裏切りとされているが、実はこの裏切りの手はずを整えたのは、この山岡道阿弥なのである。
昔道阿弥が秀秋からもらった珍しい色の腰当を、道阿弥の家臣2人に持たせて、秀秋の裏切りを確約させた。

天下分け目の戦いに、忍びが水面下で活躍していたということ。
有名な歴史の背景には忍びの働きがあったと考えると、ロマンはつきませぬな!


それにしても問題はちゃんと作ってほしいでござるよ・・・・

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