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日本初の忍者 〜志能便〜
Posted on Thursday, Dec 06, 2012 00:12
皆の衆は忍者の起源はどこにあるか、ご存知でござろうか?
忍者の起源にはいろんな説がある。
最近では、韓国が「忍者は韓国発の文化だ」とか言ってたりする。
確かにそのような説もあるのだけどね。
拙者もどれが真実かはわからないのだが、拙者としてはかなり興味深いテーマとして捉えている。
今日はそんな忍者の発祥に関する一題。
第5回忍者検定 中級の部 第22問(配点1点)
============================================
6C末聖徳太子により「志能便」(しのび)として用いられていた、
日本最初の忍者といえば誰か。次の中から選べ。
①大伴細入
②小野妹子
③蘇我馬子
④山脊大兄王
============================================
6世紀といえば日本はまだ古墳時代。
世紀末から飛鳥時代に突入して行く訳だが、この頃推古天皇が擁立され、その摂政となった聖徳太子が、日本の國造りのために目覚ましい働きを見せていたのは、皆もご承知のとおりであろう。
聖徳太子がまだ16歳の頃、日本では1、2を争う力をもった豪族、物部守屋と蘇我馬子が、インドから渡来してきた仏教を崇拝すべきか排除すべきかでモメた。
この思想の違いが決定的な亀裂となり、ついにこの両氏の関係は、武力闘争へと発展していった頃であった。
時を同じくして、現在の滋賀県に位置する辺りに蘇我氏など共に「氏」を名乗る豪族、大伴氏がいた。
この大伴氏、この後西暦800年頃には伴氏に姓を変えている。
そう、甲賀二十一家にも名を連ね、今も川上先生が21代目として忍術を受け継いでいるあの伴家でござる!!
聖徳太子といえば奈良だが、奈良と滋賀は隣り合わせの県でござる。
聖徳太子は甲賀とのゆかりが深いのか、甲賀忍者が崇拝していた甲賀の神社である「油日神社」にも行っているとする資料も残っているらしい。
そこでどんな出会いがあったかはわからないが、聖徳太子は、甲賀馬杉に住む大伴細入(さいにゅう)という者を召し抱えた。
そして、物部氏討伐のために組成された、蘇我氏側の連合軍に参加させている。
記録にはないものの、細入は当該征伐戦において伝えられた軍術をもって忍び入り、様々な功績を上げて、聖徳太子がついた蘇我軍を勝利に導いた。
聖徳太子は細入に対し、この勲功から次の称号を与えたのである。
「志能便(しのび)」と。
=========================
回答:①大伴細入
=========================
これが忍びの始まりだったのでござるね。
だがこの大伴細入は、新羅(しらぎ。今の韓国)からやってきた者で、後の大伴家とは関わりがないという説もござる。
また、細「人」(さびと)とも呼ばれたりする。
これまた謎の多き人物でござるな。
飛鳥時代まで遡って忍者の存在があったなんて、なかなかにおもしろい。
そこから一族の中で忍術を熟成していったのでござろう。
それにしても「細人」というくらいだから、すごーく痩せていたんだろうな。
これでめっちゃ太ってたら嫌でござるw
最近歴史関係の問題ばっかりでござるな。。
忍術・忍器関連、そろそろ来い!!
忍者の起源にはいろんな説がある。
最近では、韓国が「忍者は韓国発の文化だ」とか言ってたりする。
確かにそのような説もあるのだけどね。
拙者もどれが真実かはわからないのだが、拙者としてはかなり興味深いテーマとして捉えている。
今日はそんな忍者の発祥に関する一題。
第5回忍者検定 中級の部 第22問(配点1点)
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6C末聖徳太子により「志能便」(しのび)として用いられていた、
日本最初の忍者といえば誰か。次の中から選べ。
①大伴細入
②小野妹子
③蘇我馬子
④山脊大兄王
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6世紀といえば日本はまだ古墳時代。
世紀末から飛鳥時代に突入して行く訳だが、この頃推古天皇が擁立され、その摂政となった聖徳太子が、日本の國造りのために目覚ましい働きを見せていたのは、皆もご承知のとおりであろう。
聖徳太子がまだ16歳の頃、日本では1、2を争う力をもった豪族、物部守屋と蘇我馬子が、インドから渡来してきた仏教を崇拝すべきか排除すべきかでモメた。
この思想の違いが決定的な亀裂となり、ついにこの両氏の関係は、武力闘争へと発展していった頃であった。
時を同じくして、現在の滋賀県に位置する辺りに蘇我氏など共に「氏」を名乗る豪族、大伴氏がいた。
この大伴氏、この後西暦800年頃には伴氏に姓を変えている。
そう、甲賀二十一家にも名を連ね、今も川上先生が21代目として忍術を受け継いでいるあの伴家でござる!!
聖徳太子といえば奈良だが、奈良と滋賀は隣り合わせの県でござる。
聖徳太子は甲賀とのゆかりが深いのか、甲賀忍者が崇拝していた甲賀の神社である「油日神社」にも行っているとする資料も残っているらしい。
そこでどんな出会いがあったかはわからないが、聖徳太子は、甲賀馬杉に住む大伴細入(さいにゅう)という者を召し抱えた。
そして、物部氏討伐のために組成された、蘇我氏側の連合軍に参加させている。
記録にはないものの、細入は当該征伐戦において伝えられた軍術をもって忍び入り、様々な功績を上げて、聖徳太子がついた蘇我軍を勝利に導いた。
聖徳太子は細入に対し、この勲功から次の称号を与えたのである。
「志能便(しのび)」と。
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回答:①大伴細入
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これが忍びの始まりだったのでござるね。
だがこの大伴細入は、新羅(しらぎ。今の韓国)からやってきた者で、後の大伴家とは関わりがないという説もござる。
また、細「人」(さびと)とも呼ばれたりする。
これまた謎の多き人物でござるな。
飛鳥時代まで遡って忍者の存在があったなんて、なかなかにおもしろい。
そこから一族の中で忍術を熟成していったのでござろう。
それにしても「細人」というくらいだから、すごーく痩せていたんだろうな。
これでめっちゃ太ってたら嫌でござるw
最近歴史関係の問題ばっかりでござるな。。
忍術・忍器関連、そろそろ来い!!
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