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忍者になりたい人の末路 〜忍者考〜

まだまだ週末の件はてんこ盛りなのだが、忘れぬうちに移動中に読んだ本の書評をさらっといくでござる。

いやはや、忍者の本にはまだまだ拙者が読んだことのない研究本や小説などいっぱいある。
特に昭和時代に興った忍者ブームの際に、おそらくおびただしい数の書籍が出ているはずであるが、その多くは絶版となり、古本屋を巡らないと当時の本にはお目にかかれない。

もしなんかしらの忍者関連の書籍が欲しいな〜というとき、ヤフオク!で「忍者」というキーワードで検索すると、「なんだこれは?」という本にめぐり合うことがある。
今回は、そんな風にしてヤフオク!で出会い、500円で競り落とした、よくわからない本を読んだのでござる。

【高木護「忍術考」未来社】


この忍術についていかにも深く考察したかのようなタイトル。
きっと作者独自の深く考えられた忍術感が踏んだん盛り込まれているに違いない。
拙者が生まれた年の1年前に出版されたもの。
きっと何かのヒントになるような記述がたっぷり含まれているだろう。

と過剰な期待を抱いてページを開いたその本は、こんなあらすじだった。
小さな頃から自分を忍術使いであると信じて、小学校の2階から「ドロン!ドロン!」と言いながら何度も飛び降りた少年時代を過去に持つある男。
中年になってもフラフラとし、職務質問をされてなぜか警察に捕まりブタ箱へ。
牢屋から出てからは、当てもなく山に向かい、そこで暮らす婆さんと小さい男に世話になりながら生きてみた。
あるとき婆さん達が忽然と姿を消し、特に働くこともなくなった主人公は、前から夢だった忍術修行をするようになる。
「お前はどうなりたいのじゃ」「私は忍術を覚えたい」と独り言をいい、妄想を続けながら、裸になって森の中を走り回ったりする。

ある日、いつものように全裸で森の中を歩いていると、仙人のような老人と出逢う。
その老人から「向こうの山の上に、かなりの腕の忍術使いであるくノ一がいる」という話を聞く。
主人公は、その山に行ってみて頂上付近にある山小屋で「ごめんください」と叫ぶと、後ろから「誰だ!」という声が・・・

こんなところから、主人公は忍術を習って行くのである。

この本でいう忍術とは、「自然と一体となること」。
例えば生きるために魚を獲るときの極意として、川に御礼の念を込め、川と一体になることなどが書いてあった。
さすれば魚は、川に入れた自分の手の中に、自ら入ってくるとのことである。
自然との一体化というのは武道作品とかだとよく出てくるが、神道的な考えからすれば自然と導き出されるようなことで目新しいことはなかったかな。

作品全体を通して、忍者に関することで特に得たものも、作品としてのおもしろさも特になかったw
変な男が「自分は忍者なんじゃないか」っていう変わった妄想に従って、できもしないことをほぼ好き勝手にやってみるだけの、自分勝手な自己満足物語だったからでござる。。
なんというかただの自慰作品だ・・・

これが文学なのか。。。
と深く考えてもみたが、やっぱりおもしろくないものは面白くない。
別に何にも深くなかった。。。
忍者を題材にしたときに、必ずしもバトルシーンを入れなきゃいけないとかそんな思いは微塵もない。
だが、もう少しテーマというか、伝えたいメッセージとか、そういうのをしっかり打ち出して欲しかったな。

実はこの作品のラストは、かなりのバッドエンドでござる。
しかも結構途中から予想できる感じの。

もしかしたら、こういう妄想ばかりしているとよくないよ、っていう啓示をしたかったのかな。。
当時にしたら忍術ブームで忍術を本当にできると信じてやろうとした人が後を立たなかったのかもしれない。
そんなこと考えてないで現実みろよ、っていう。
川上先生も「忍術じゃこのご時世食っていけない」って仰ってたし。

別に自分は忍術使いかもしれない、なんて思わないし、空も飛ばないのはわかっているが、忍者活動を行っていくってことは答えのない雲をつかむようなものだってことは、最近薄々感じている。

忍者好きの仲間と話していても、忍者の定義と忍者のアピールの仕方について、人それぞれあまりにも違っていて、「これだ」っていうものがない。
みんなが悩み、みんなが試行錯誤しながら忍者というものを模索している。
この正解のない存在こそがロマンを掻き立てるわけでござるがね!

拙者は「ドロン!ドロン!」とか言いながら飛び上がったりはせずに、地に足をついた忍者活動をして行きたいでござるな。。。


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