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東京に残る伊賀衆の息吹 〜練馬区(旧橋戸村)探索〜
Posted on Saturday, Mar 09, 2013 21:54
今日はあったかくて気持ちよかったものの、花粉が飛びまくって飛びまくってもう災難でござった。。
さっき連続30回くしゃみをしてしまったところでござる。
つらいっす。。
江戸だか戦後だかでスギの植林があってからこんなことになったので、戦国時代とかは花粉症はなかったはず。
だから、忍者も春先に屋根裏に潜んでても大丈夫だったのでしょうな!
床下でくしゃみ止まらなくなったと考えたら恐ろしくて仕方ないw
さて、今日は午前中古文書講座を受講したのち、午後にとある忍務を行って参りました!
先日の伊賀遠征のとき、池田先生から仰せ使った任務。。
それは、、、
江戸における伊賀衆の形跡にまつわる調査でござる!!
伊賀衆が江戸時代に今の四谷辺りに屋敷を構えたことは知っていた。
大学生のときに服部半蔵の墓がある「西念寺」には行っていて、いろいろ思いを馳せながらそこで一時間くらい墓の前で座っていたw
当時は暇だったにせよ、何してんだろうなぁw
しかし池田先生情報によると、もともと家康の江戸入府に伴ってきた伊賀衆が知行としていただいたのは、今の練馬区大泉町あたりにあった「橋戸村」であった。
これを知らなかったのは不甲斐ない。。
ってか大学生のとき1年くらい練馬区の隣の板橋区に住んでたのに・・・笑
まぁ気を取り直して早速行ってきたでござるよ!!
都営大江戸線で新宿から20分くらいにある「練馬春日町」に降り立った拙者。
練馬区特有の完成な住宅街を歩いて15分くらいであろうか。
とある神社が見えてきたでござる。
【静かな町中にある神社】
【高松御岳神社にござります】
【看板を読むと・・・】
【気になる記述が!!】
なんとあの服部半蔵が寄贈した仁王像があるらしい!!!
さっそく鳥居をくぐって中に入り、まずはお参り。
そして辺りを見渡してみると・・・
【なんかいる!!】
こいつが。。。
こいつらが仁王像だ〜!!
※ちょっとぼかしていい感じにしてみましたw
もちろん仁王のできの良さもいいのだけど(あんまようわからんけど)、忍者にとっての一番要チェックポイントはそこじゃない!
真実は後ろに隠されているのであ〜る!
【背後をとってやったぜ】
【「服部半蔵」の文字が!!】
【こっちにも!!】
これは確かに服部半蔵ですな。
本当はここから北へ150mくらいいったとこに「高松寺」というところがあり、そこに寄贈されたらしいのだが、明治に廃寺となってこっちに移設したらしいどえす。
今立っているところに伊賀の忍び達が、、、知行だから違うかもだけど少なくとも、かの服部半蔵が来ていた場所だと考えるとロマンを感じざるを得ないっす。
もっと早く気づいてればよかったっす。
そこからさらに練馬IC辺りまで30分ほど、西の方へと歩いていったでござる。
目指すはIC横にある氷川神社!
ここにもワクワクするようなものがあるようだぞ。
【自転車屋さんのとなりにあります】
【階段上ります】
【立派な社殿!】
ここでもまずは盛大に柏手を打ち、お参りをすませて周りを見渡すと・・・
【キター!!!】
なんと伊賀衆が奉納した水盤(手を洗う石)と鳥居があるようです!!
奉納された水盤には伊賀の衆がここに来た経緯が記されているようだ!
が、、肉眼じゃないと見えない。。ってか肉眼でもだいぶ薄かった。。
鳥居にはそのときの伊賀衆の名前108人の名が綴られているとのことなのだが、鳥居は倒れてしまい、其の字も読めない。。
【ふえ〜ん・・・】
何が書いてあるのかはどうしても知りたかったので、社務所の神主さんにお願いしてみたら、何が記載しているかの資料をいただきました!
(漢文だけど。。。)
内容としては、ざっと意訳でこんな感じ。
武蔵一族のご先祖様は家康公入府とともに伊賀から来たと代表がおっしゃっていたので、(柴田姓ないかな、、)と内心期待していたのだが、嘉永二年だと柴田家は既に小石川にいて徒目付だったはずだから、ここに名前がないのは当然ではある。
いったいどのタイミングで小石川にいったんだろう。。
まだまだ調査が必要でござるな!
その後練馬の図書館で郷土資料を読んで、橋戸村についての調査をいたしやした!
あんまりいい資料は残ってなかったけど、確かに服部石見守がその土地を治めていたことが確認できたでござる!
なんかこうやって歴史を紐解いていくのって楽しい!!
忍者の皆様、東京にお立ち寄りの際はぜひともお参りしていってくんさいまし〜。
■高松御岳神社
練馬区高松3-19
■大泉氷川神社
練馬区大泉町5-15-5
さっき連続30回くしゃみをしてしまったところでござる。
つらいっす。。
江戸だか戦後だかでスギの植林があってからこんなことになったので、戦国時代とかは花粉症はなかったはず。
だから、忍者も春先に屋根裏に潜んでても大丈夫だったのでしょうな!
床下でくしゃみ止まらなくなったと考えたら恐ろしくて仕方ないw
さて、今日は午前中古文書講座を受講したのち、午後にとある忍務を行って参りました!
先日の伊賀遠征のとき、池田先生から仰せ使った任務。。
それは、、、
江戸における伊賀衆の形跡にまつわる調査でござる!!
伊賀衆が江戸時代に今の四谷辺りに屋敷を構えたことは知っていた。
大学生のときに服部半蔵の墓がある「西念寺」には行っていて、いろいろ思いを馳せながらそこで一時間くらい墓の前で座っていたw
当時は暇だったにせよ、何してんだろうなぁw
しかし池田先生情報によると、もともと家康の江戸入府に伴ってきた伊賀衆が知行としていただいたのは、今の練馬区大泉町あたりにあった「橋戸村」であった。
これを知らなかったのは不甲斐ない。。
ってか大学生のとき1年くらい練馬区の隣の板橋区に住んでたのに・・・笑
まぁ気を取り直して早速行ってきたでござるよ!!
都営大江戸線で新宿から20分くらいにある「練馬春日町」に降り立った拙者。
練馬区特有の完成な住宅街を歩いて15分くらいであろうか。
とある神社が見えてきたでござる。
【静かな町中にある神社】
【高松御岳神社にござります】
【看板を読むと・・・】
【気になる記述が!!】
なんとあの服部半蔵が寄贈した仁王像があるらしい!!!
さっそく鳥居をくぐって中に入り、まずはお参り。
そして辺りを見渡してみると・・・
【なんかいる!!】
こいつが。。。
こいつらが仁王像だ〜!!
※ちょっとぼかしていい感じにしてみましたw
もちろん仁王のできの良さもいいのだけど(あんまようわからんけど)、忍者にとっての一番要チェックポイントはそこじゃない!
真実は後ろに隠されているのであ〜る!
【背後をとってやったぜ】
【「服部半蔵」の文字が!!】
【こっちにも!!】
これは確かに服部半蔵ですな。
本当はここから北へ150mくらいいったとこに「高松寺」というところがあり、そこに寄贈されたらしいのだが、明治に廃寺となってこっちに移設したらしいどえす。
今立っているところに伊賀の忍び達が、、、知行だから違うかもだけど少なくとも、かの服部半蔵が来ていた場所だと考えるとロマンを感じざるを得ないっす。
もっと早く気づいてればよかったっす。
そこからさらに練馬IC辺りまで30分ほど、西の方へと歩いていったでござる。
目指すはIC横にある氷川神社!
ここにもワクワクするようなものがあるようだぞ。
【自転車屋さんのとなりにあります】
【階段上ります】
【立派な社殿!】
ここでもまずは盛大に柏手を打ち、お参りをすませて周りを見渡すと・・・
【キター!!!】
なんと伊賀衆が奉納した水盤(手を洗う石)と鳥居があるようです!!
奉納された水盤には伊賀の衆がここに来た経緯が記されているようだ!
が、、肉眼じゃないと見えない。。ってか肉眼でもだいぶ薄かった。。
鳥居にはそのときの伊賀衆の名前108人の名が綴られているとのことなのだが、鳥居は倒れてしまい、其の字も読めない。。
【ふえ〜ん・・・】
何が書いてあるのかはどうしても知りたかったので、社務所の神主さんにお願いしてみたら、何が記載しているかの資料をいただきました!
(漢文だけど。。。)
内容としては、ざっと意訳でこんな感じ。
明智光秀の乱(本能寺の変)によって、危なくなった家康公を伊賀経由で三河まで送り届けた(伊賀越え)ことから、その功を称されて伊賀者が武蔵国に知行を賜ったのが伊賀の党の始まりである。
稲荷大明神(氷川神社の境内社として祭ってある)の改修のときに、その子孫である伊賀衆108人が力をあわせて頑張ったので、その名前を彫って、これを子孫に告げようと思う。
嘉永二年二月七日
武蔵一族のご先祖様は家康公入府とともに伊賀から来たと代表がおっしゃっていたので、(柴田姓ないかな、、)と内心期待していたのだが、嘉永二年だと柴田家は既に小石川にいて徒目付だったはずだから、ここに名前がないのは当然ではある。
いったいどのタイミングで小石川にいったんだろう。。
まだまだ調査が必要でござるな!
その後練馬の図書館で郷土資料を読んで、橋戸村についての調査をいたしやした!
あんまりいい資料は残ってなかったけど、確かに服部石見守がその土地を治めていたことが確認できたでござる!
なんかこうやって歴史を紐解いていくのって楽しい!!
忍者の皆様、東京にお立ち寄りの際はぜひともお参りしていってくんさいまし〜。
■高松御岳神社
練馬区高松3-19
■大泉氷川神社
練馬区大泉町5-15-5
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