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神になった忍者 〜高坂甚内〜
Posted on Thursday, Jan 03, 2013 15:59
正月三日目になり申す!
昨日のうちに江戸に戻って来た拙者は、今日は浅草に繰り出したでござる。
まずはさっと浅草寺でお参りをすませ、祭り衣装専門店へ。
なぜ祭り衣装専門店かって!?
明後日に控えた武蔵一族の新年会に必要な道具調達のためでござる。
昨年の末に、ひょんと結成が決まり加入することになってしまった、和楽器を使った芸忍ユニット「猿流会」の出し物があるのだ。
まさか自分が楽器や踊りをやることになるとは・・・
そこで必要となるあるモノを購入。
まだ武蔵一族のメンバーにも何をやるかは秘密なので、何を買ったかも秘密でやんす!
また次の出し物でくのいち勢の「巫女舞」の伴奏として、雅楽や神楽に使われる「龍笛」を吹くことになっていた。
が、ちょうど去年の12月に笛の先生から習ったとき、
「普通はちゃんと吹けるまで、毎日練習して半年はかかります」
と言われていたのでござる。。
最初は一切音も出なかったが、練習していると指も動き、高い音なら結構出るようになってきた。
でも低い音は出ないケースが多すぎて、どう考えても明後日の出し物には間に合わぬ!
ということで、音源は音声ファイルから、、、ということで電気屋さんでスピーカーを買うてきました。
ちょうど家にもスピーカーなかったし、ちょうどええかもね。
当日は地味に太鼓をやらせていただきまする。
と、前フリが長くなってしまったが、メインはその後、少し前からどうしても言ってみたかった場所に行って参った!!
【そう、甚内神社でござる!!】
え?
なにココ??
忍者ファンなら一度は訪れてみたいスポットでござるよ。
今まで甲賀忍者検定には出ていなかったようだが、東京忍者検定ができたら確実に出るぞよ!!
なんとこの神社、祀られているのは「高坂甚内」という武田勝頼に仕えた忍者なのである。
時は遡り戦国時代。
甲斐の虎・武田信玄は、武田家の中で「三ツ者」と呼ばれる忍び集団を雇っていた。
ちなみに信玄が抱えていた忍び集団は、このタヂカラ軍団の三ツ者と、くのいち歩き巫女集団の「梓衆」がありまする。
信玄亡き後、武田家の家督を継いだ勝頼に仕えた忍者が高坂甚内でござった。(まだ幼齢のはずだが。。)
高坂甚内は武田二十四将の一人、高坂昌信の一族を自称していたようだ。
この勝頼の時代には、忍者集団の働きも低迷してしまっていたようで、三ツ者と呼ばれた時代に比べると目立った働きはなかったらしい。
そして、武田家が織田信長との長篠の戦いを皮切りに一気に力を失い、滅亡すると、高坂甚内は祖父に連れられて諸国を行脚することとなった。
その途中、宮本武蔵に見いだされて剣を学び、奥義を究めた!とされているが本当かよ。。。。
その後何があったかわからぬが、ちょうど徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸のまちづくりを推進しているところで高坂甚内は盗賊行為を働くようになった。
おそらく忍者の働き口がなくなったための苦渋の決断だろう。
時を同じくして、同じように滅亡した北条家のお抱え忍び・風魔小太郎率いる風魔衆も江戸にて賊を働くようになる。
このため、高坂と風魔の縄張り争いが勃発した。
高坂甚内と風魔小太郎が創作などでライバルとして取り扱われるのは、武田vs北条以外にもこのような背景が絡んでいたからだろう。
ついにこれら賊の悪事にこらえきれぬ幕府側は、連絡をくれた者の過去の罪は一切問わないことを条件として賊に懸賞金をかけた。
高坂甚内は、自分のやったことを棚に上げてすべて風魔衆に罪をなすりつけ、幕府側に風魔衆の棲み家を案内し、小太郎を含むあらゆる風魔衆を捕縛させたのであった。
これによって、風魔衆は江戸の町から消え去ったため、江戸における盗賊は高坂甚内の独壇場になり、高坂甚内はまたも江戸で賊行為をやりたい放題。
そんな中、賊仲間であった「鳶沢甚内」という者に裏切られ、高坂甚内は幕府に追われることとなる。
なんと、この鳶沢甚内は、元風魔衆の一味であったのだ。
間者にござる。
ちょうどそのとき、高坂甚内は瘧(おこり。マラリアのこと)を煩っており、コレが元で逃げることができず捕まってしまった。
高坂甚内は、市中引き回しの上、隅田川の分流として流れていた鳥越川にかかる橋を渡って、今の浅草にある「鳥越」という刑場にひっぱっていかれた。
この刑場にて処刑される際、高坂甚内はこう言ったという。
「ワシが捕まったのは瘧にかかったからじゃ。
ワシが死んだ後、ワシを祀るがよい。
瘧のある者はワシのところへ来ればきっと治してやろうぞ!」
こうして高坂甚内は露と消え、その遺言どおり祀られることとなり、民衆の信仰を集めたのでござった。
このことから、処刑のために高坂甚内が渡った橋を「甚内橋」といい、その後祀られた神社を「甚内神社」という。
今でも浅草橋三丁目には甚内神社がひっそりと、陣内橋跡の石碑がほっそりと佇んでいるのである。
【布団屋さんの橋にひっそりとある甚内橋跡】
【マラリアに効くとされる甚内神社】
【甚内神社の場所はココ!】
正月三ヶ日に参ったにもかかわらず、やはり誰もいなかった。
どうやら元旦には餅がもらえたらしいが。。
忍者がその忍術を盗みに使うと、もはやそれは忍者ではないと言われているのでござる。
だが、次第に活躍の場を無くした忍び達がその技術を活かせる先はきっと少なく、盗賊となってしまうのも仕方ない気はするなぁ。
石川五右衛門をはじめとして、忍者から盗賊に墜ちるケースは多いが、意外と後世になって人気が出ているのも不思議でござる。
盗賊だったし高坂甚内は完全に悪党だったんだろうけど、神になってしまう八百万の精神は、おそらく日本独特なものであろう。
こんな日本が好きでござるw
拙者も死んだら誰か神にしてくれないだろうか。
拙者の最近の悩みであるM字型ハゲにご利益のある神社、嵩丸大明神なんていかがだろうか。
きっとM字から0字にしてくれようぞ!!
昨日のうちに江戸に戻って来た拙者は、今日は浅草に繰り出したでござる。
まずはさっと浅草寺でお参りをすませ、祭り衣装専門店へ。
なぜ祭り衣装専門店かって!?
明後日に控えた武蔵一族の新年会に必要な道具調達のためでござる。
昨年の末に、ひょんと結成が決まり加入することになってしまった、和楽器を使った芸忍ユニット「猿流会」の出し物があるのだ。
まさか自分が楽器や踊りをやることになるとは・・・
そこで必要となるあるモノを購入。
まだ武蔵一族のメンバーにも何をやるかは秘密なので、何を買ったかも秘密でやんす!
また次の出し物でくのいち勢の「巫女舞」の伴奏として、雅楽や神楽に使われる「龍笛」を吹くことになっていた。
が、ちょうど去年の12月に笛の先生から習ったとき、
「普通はちゃんと吹けるまで、毎日練習して半年はかかります」
と言われていたのでござる。。
最初は一切音も出なかったが、練習していると指も動き、高い音なら結構出るようになってきた。
でも低い音は出ないケースが多すぎて、どう考えても明後日の出し物には間に合わぬ!
ということで、音源は音声ファイルから、、、ということで電気屋さんでスピーカーを買うてきました。
ちょうど家にもスピーカーなかったし、ちょうどええかもね。
当日は地味に太鼓をやらせていただきまする。
と、前フリが長くなってしまったが、メインはその後、少し前からどうしても言ってみたかった場所に行って参った!!
【そう、甚内神社でござる!!】
え?
なにココ??
忍者ファンなら一度は訪れてみたいスポットでござるよ。
今まで甲賀忍者検定には出ていなかったようだが、東京忍者検定ができたら確実に出るぞよ!!
なんとこの神社、祀られているのは「高坂甚内」という武田勝頼に仕えた忍者なのである。
時は遡り戦国時代。
甲斐の虎・武田信玄は、武田家の中で「三ツ者」と呼ばれる忍び集団を雇っていた。
ちなみに信玄が抱えていた忍び集団は、このタヂカラ軍団の三ツ者と、くのいち歩き巫女集団の「梓衆」がありまする。
信玄亡き後、武田家の家督を継いだ勝頼に仕えた忍者が高坂甚内でござった。(まだ幼齢のはずだが。。)
高坂甚内は武田二十四将の一人、高坂昌信の一族を自称していたようだ。
この勝頼の時代には、忍者集団の働きも低迷してしまっていたようで、三ツ者と呼ばれた時代に比べると目立った働きはなかったらしい。
そして、武田家が織田信長との長篠の戦いを皮切りに一気に力を失い、滅亡すると、高坂甚内は祖父に連れられて諸国を行脚することとなった。
その途中、宮本武蔵に見いだされて剣を学び、奥義を究めた!とされているが本当かよ。。。。
その後何があったかわからぬが、ちょうど徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸のまちづくりを推進しているところで高坂甚内は盗賊行為を働くようになった。
おそらく忍者の働き口がなくなったための苦渋の決断だろう。
時を同じくして、同じように滅亡した北条家のお抱え忍び・風魔小太郎率いる風魔衆も江戸にて賊を働くようになる。
このため、高坂と風魔の縄張り争いが勃発した。
高坂甚内と風魔小太郎が創作などでライバルとして取り扱われるのは、武田vs北条以外にもこのような背景が絡んでいたからだろう。
ついにこれら賊の悪事にこらえきれぬ幕府側は、連絡をくれた者の過去の罪は一切問わないことを条件として賊に懸賞金をかけた。
高坂甚内は、自分のやったことを棚に上げてすべて風魔衆に罪をなすりつけ、幕府側に風魔衆の棲み家を案内し、小太郎を含むあらゆる風魔衆を捕縛させたのであった。
これによって、風魔衆は江戸の町から消え去ったため、江戸における盗賊は高坂甚内の独壇場になり、高坂甚内はまたも江戸で賊行為をやりたい放題。
そんな中、賊仲間であった「鳶沢甚内」という者に裏切られ、高坂甚内は幕府に追われることとなる。
なんと、この鳶沢甚内は、元風魔衆の一味であったのだ。
間者にござる。
ちょうどそのとき、高坂甚内は瘧(おこり。マラリアのこと)を煩っており、コレが元で逃げることができず捕まってしまった。
高坂甚内は、市中引き回しの上、隅田川の分流として流れていた鳥越川にかかる橋を渡って、今の浅草にある「鳥越」という刑場にひっぱっていかれた。
この刑場にて処刑される際、高坂甚内はこう言ったという。
「ワシが捕まったのは瘧にかかったからじゃ。
ワシが死んだ後、ワシを祀るがよい。
瘧のある者はワシのところへ来ればきっと治してやろうぞ!」
こうして高坂甚内は露と消え、その遺言どおり祀られることとなり、民衆の信仰を集めたのでござった。
このことから、処刑のために高坂甚内が渡った橋を「甚内橋」といい、その後祀られた神社を「甚内神社」という。
今でも浅草橋三丁目には甚内神社がひっそりと、陣内橋跡の石碑がほっそりと佇んでいるのである。
【布団屋さんの橋にひっそりとある甚内橋跡】
【マラリアに効くとされる甚内神社】
【甚内神社の場所はココ!】
正月三ヶ日に参ったにもかかわらず、やはり誰もいなかった。
どうやら元旦には餅がもらえたらしいが。。
忍者がその忍術を盗みに使うと、もはやそれは忍者ではないと言われているのでござる。
だが、次第に活躍の場を無くした忍び達がその技術を活かせる先はきっと少なく、盗賊となってしまうのも仕方ない気はするなぁ。
石川五右衛門をはじめとして、忍者から盗賊に墜ちるケースは多いが、意外と後世になって人気が出ているのも不思議でござる。
盗賊だったし高坂甚内は完全に悪党だったんだろうけど、神になってしまう八百万の精神は、おそらく日本独特なものであろう。
こんな日本が好きでござるw
拙者も死んだら誰か神にしてくれないだろうか。
拙者の最近の悩みであるM字型ハゲにご利益のある神社、嵩丸大明神なんていかがだろうか。
きっとM字から0字にしてくれようぞ!!
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Comment
千
2013.01.04 at 16:46 | Edit
正月から忍活してるねー!
明日楽しみ~(*^^*)
嵩丸神社…
そのご利益では無理だΣ(゜ロ゜;
行ってみたかったんですよね〜!
新年にお参りできてよかったです!
う、、、やっぱダメですかね。。ザビエルはげにしようかな。。
From Master | 2013.01.04 at 22:04