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江戸時代最後の大戦 〜島原の乱〜
Posted on Sunday, Nov 04, 2012 15:49
本日は、忍者が参戦したと記録される、最後の戦についての問題。
かの有名な戦でござる。
第5回忍者検定 中級の部 第15問(配点1点)
============================================
江戸の太平になると、多くの忍者は百姓の生活となったが、
3代将軍家光の時再び忍者が脚光を浴びる事件が起こった。
肥前の国の農民約4万人が一揆を起こし原城に立て籠った。
この一揆解決のため、老中の命を受けて甲賀忍者10名が参戦し軍功を挙げた。
この事件を何と云うか。
①肥前の乱
②甲賀一揆
③甲州一揆
④島原の乱
============================================
肥前は旧国名で、現在の長崎・佐賀にあたる地域でござる。
甲賀は現在の滋賀県、甲州は現在の山梨・長野にあたると覚えていれば、②と③は消去できよう。
あとは有名な戦を知っているかでござる。
前回のエントリで説明した関ヶ原の戦いがあったとき、この地域にある天草諸島は小西行長、島原半島は有馬晴信という熱心なキリスト教信者である大名が治めていた。
キリシタン大名というやつである。
故にこの地域には、庶民の中にもキリスト教信者が少なからずいたのでござる。
その後、関ヶ原の戦いが終わると、負けた西軍についていた小西の領地は没収され、東軍についていた有馬も領地変えが行われる。
ここで新たに天草諸島を治めることになったのが寺沢広高、島原半島を治めることになったのが松倉勝家である。
この大名達はキリシタン大名ではないので、キリスト教信者の弾圧を厳しく行った。
また、3代目徳川将軍家光によって義務づけられた参勤交代や、新しい城を普請したりするのにすごーくお金がかかるようになったため、農民にとっては厳しい年貢の取り立てを行っていた。
年貢が納められなければ井戸に落とされたり、磔にされるなど、厳しい弾圧があり、かといってイエス・キリストを心の拠り所にすることもできぬ。。
農民達のフラストレーションは、つもりにつもっていったのだった。
そんな中、5歳で読み書きを覚えて、多くの学問を身に付けた優秀な美少年が天草に現れた。
この少年こそが天草四郎。
この数年前、幕府に追放されていったキリスト教宣教師・ママコスが残していった予言「今から26年後に16歳の救世主が現れる」の、ちょうど26年目にあたる年であった。
この救世主をかつぎ、島原・天草の農民が蜂起して、1637年、島原天草の乱が起こったのでござる。
四郎率いる一揆軍は、昔松倉氏が壊して拝上となった原城を修理して砦とし、立て籠って幕府軍に対峙した。
幕府側は、板倉重昌を派遣し、この鎮圧にあたらせた。
板倉氏は
「どうせ農民ばっかりじゃし、すぐに終わるじゃろうて」
と、たかをくくって原城に2回も総攻撃をかけて攻め入ったが、糞尿は投げてくるわ、鉄砲で狙撃してくるわでハチャメチャな抵抗を見せた一揆衆に2回も敗走し、最終的に当の板倉重昌は、鉄砲の弾が当たり討ち死にに至ってしまったのである。
おそるべし反乱軍・・・
そうして幕府はこの事態を重く受け止め、老中である松平信綱が、討伐軍の総大将として狩り出されることになった。
松平信綱は東海道を進み、甲賀の地・水口宿で宿泊をした。
このとき、甲賀の忍者衆100人が、松平信綱に討伐軍に加えることを頼み込んだのでござる。
前回のエントリで山岡道阿弥が作った甲賀百人組は、江戸にいたわけであるため、そのなかに入っていない甲賀に住んでいる忍者達である。
松平信綱としては、忍者をそんな100人も連れては行けないので、10名だけを選んで連れて行った。
討伐軍が原城に着陣した後、信綱は甲賀衆に敵城の堀の長さ、高さ、深さなどを探るよう命じた。
とりあえず10名のうち5名の忍びが、夜中、敵城の堀下に忍び込んだ。
敵の警戒は厳しい。
もう少し様子を見て、隙をついて城に忍び込まねばなるまい。
そう考えた忍者衆は、夜中のうちに堀の下に落ちている敵・見方の死体の腹を切り裂き、腸を取り出して、自分の腹から出ているようにセッティングして死んだフリをした。
変装の術である。
こうして昼間は、ずっと死体として堀の下で待っていたという。
そうして夜となって闇が来ると、だいぶ敵が寝入ったスキを見計らって、城内に侵入し、敵城の視察を終えて老中に報告した。
死体にまみれて任務成功でござる!
籠城をしている敵方にとっては兵糧(食べ物)の在庫がどれほどの期間、持ちこたえられるかにかかっている。
甲賀衆は13つもの米俵を盗み出す功績も見せつけた。
しかし、、、この10名の甲賀衆。
関ヶ原の戦い以来25年も大きな戦がなかったからか、参戦した忍びのほとんどが実は60歳超えの翁が多かったからか、いくつか失態もしてしまっている。
総攻撃の前日、またも老中より命があり、城内の様子を探るよう申し付けられた。
望月、芥川という2人の忍者が城中へ潜入!
そ〜っと、城内を移動する2人。
すると望月さんが・・・
望月「うわーーーーーーっ!」
と、敵の仕掛けた落とし穴に落ちてしまったのでござる!
芥川「え、、、まじかよ!」
一揆衆「忍びのものじゃ〜!夜討ちじゃ〜!」
と散々に石やら松明やらを投げまくられる始末であったそう。
なんとか芥川は望月を助け、命からがら逃げ出したそうな。
また、別の機会には潜入に成功して、敵の作戦を盗み聞きできるポジションに位置どれた忍び衆。
甲賀忍者「ふふふ。。。盗み聞きしてやるぜ。。全て筒抜けだ!」
と思って耳をすませば・・・・
一揆衆「○×▲*‰∬≫♯@・・・」
甲賀忍者「・・・え!?なんて言ってんのこいつら!?」
なんと・・・方言がわからなくて何言ってるのかわからない。。
時たまポルトガル語とかも入ってくるものだから、もうチンプンカンプン。。
せっかく忍び込んだのに、何にも報告できるほどの内容は得られなかったのである。
ううむ。。カッコ悪い。。
最終的には、望月さんが落とし穴に落ちた次の日の総攻撃により、幕府軍は一揆を鎮圧することができた。
これが島原の乱とか、天草・島原一揆とか呼ばれているものでござる。
=====================
第15問 解答:④島原の乱
=====================
最終的には、この10名の甲賀忍者達は、死体の後片付け、埋葬などまでやったとのこと。
しかも江戸にも甲賀にも帰らず、島原の地で、隠れキリシタンとして暮らしたらしい。
もう甲賀にいても、江戸にいてもたいした忍びの仕事はできないと思ったのでござろうな。
食い扶持をつなぐのは大事である。
拙者も忍者でなんとか食い扶持をつなぎたいが、ダメだったら隠れキリシタンになろうっと!!
かの有名な戦でござる。
第5回忍者検定 中級の部 第15問(配点1点)
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江戸の太平になると、多くの忍者は百姓の生活となったが、
3代将軍家光の時再び忍者が脚光を浴びる事件が起こった。
肥前の国の農民約4万人が一揆を起こし原城に立て籠った。
この一揆解決のため、老中の命を受けて甲賀忍者10名が参戦し軍功を挙げた。
この事件を何と云うか。
①肥前の乱
②甲賀一揆
③甲州一揆
④島原の乱
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肥前は旧国名で、現在の長崎・佐賀にあたる地域でござる。
甲賀は現在の滋賀県、甲州は現在の山梨・長野にあたると覚えていれば、②と③は消去できよう。
あとは有名な戦を知っているかでござる。
前回のエントリで説明した関ヶ原の戦いがあったとき、この地域にある天草諸島は小西行長、島原半島は有馬晴信という熱心なキリスト教信者である大名が治めていた。
キリシタン大名というやつである。
故にこの地域には、庶民の中にもキリスト教信者が少なからずいたのでござる。
その後、関ヶ原の戦いが終わると、負けた西軍についていた小西の領地は没収され、東軍についていた有馬も領地変えが行われる。
ここで新たに天草諸島を治めることになったのが寺沢広高、島原半島を治めることになったのが松倉勝家である。
この大名達はキリシタン大名ではないので、キリスト教信者の弾圧を厳しく行った。
また、3代目徳川将軍家光によって義務づけられた参勤交代や、新しい城を普請したりするのにすごーくお金がかかるようになったため、農民にとっては厳しい年貢の取り立てを行っていた。
年貢が納められなければ井戸に落とされたり、磔にされるなど、厳しい弾圧があり、かといってイエス・キリストを心の拠り所にすることもできぬ。。
農民達のフラストレーションは、つもりにつもっていったのだった。
そんな中、5歳で読み書きを覚えて、多くの学問を身に付けた優秀な美少年が天草に現れた。
この少年こそが天草四郎。
この数年前、幕府に追放されていったキリスト教宣教師・ママコスが残していった予言「今から26年後に16歳の救世主が現れる」の、ちょうど26年目にあたる年であった。
この救世主をかつぎ、島原・天草の農民が蜂起して、1637年、島原天草の乱が起こったのでござる。
四郎率いる一揆軍は、昔松倉氏が壊して拝上となった原城を修理して砦とし、立て籠って幕府軍に対峙した。
幕府側は、板倉重昌を派遣し、この鎮圧にあたらせた。
板倉氏は
「どうせ農民ばっかりじゃし、すぐに終わるじゃろうて」
と、たかをくくって原城に2回も総攻撃をかけて攻め入ったが、糞尿は投げてくるわ、鉄砲で狙撃してくるわでハチャメチャな抵抗を見せた一揆衆に2回も敗走し、最終的に当の板倉重昌は、鉄砲の弾が当たり討ち死にに至ってしまったのである。
おそるべし反乱軍・・・
そうして幕府はこの事態を重く受け止め、老中である松平信綱が、討伐軍の総大将として狩り出されることになった。
松平信綱は東海道を進み、甲賀の地・水口宿で宿泊をした。
このとき、甲賀の忍者衆100人が、松平信綱に討伐軍に加えることを頼み込んだのでござる。
前回のエントリで山岡道阿弥が作った甲賀百人組は、江戸にいたわけであるため、そのなかに入っていない甲賀に住んでいる忍者達である。
松平信綱としては、忍者をそんな100人も連れては行けないので、10名だけを選んで連れて行った。
討伐軍が原城に着陣した後、信綱は甲賀衆に敵城の堀の長さ、高さ、深さなどを探るよう命じた。
とりあえず10名のうち5名の忍びが、夜中、敵城の堀下に忍び込んだ。
敵の警戒は厳しい。
もう少し様子を見て、隙をついて城に忍び込まねばなるまい。
そう考えた忍者衆は、夜中のうちに堀の下に落ちている敵・見方の死体の腹を切り裂き、腸を取り出して、自分の腹から出ているようにセッティングして死んだフリをした。
変装の術である。
こうして昼間は、ずっと死体として堀の下で待っていたという。
そうして夜となって闇が来ると、だいぶ敵が寝入ったスキを見計らって、城内に侵入し、敵城の視察を終えて老中に報告した。
死体にまみれて任務成功でござる!
籠城をしている敵方にとっては兵糧(食べ物)の在庫がどれほどの期間、持ちこたえられるかにかかっている。
甲賀衆は13つもの米俵を盗み出す功績も見せつけた。
しかし、、、この10名の甲賀衆。
関ヶ原の戦い以来25年も大きな戦がなかったからか、参戦した忍びのほとんどが実は60歳超えの翁が多かったからか、いくつか失態もしてしまっている。
総攻撃の前日、またも老中より命があり、城内の様子を探るよう申し付けられた。
望月、芥川という2人の忍者が城中へ潜入!
そ〜っと、城内を移動する2人。
すると望月さんが・・・
望月「うわーーーーーーっ!」
と、敵の仕掛けた落とし穴に落ちてしまったのでござる!
芥川「え、、、まじかよ!」
一揆衆「忍びのものじゃ〜!夜討ちじゃ〜!」
と散々に石やら松明やらを投げまくられる始末であったそう。
なんとか芥川は望月を助け、命からがら逃げ出したそうな。
また、別の機会には潜入に成功して、敵の作戦を盗み聞きできるポジションに位置どれた忍び衆。
甲賀忍者「ふふふ。。。盗み聞きしてやるぜ。。全て筒抜けだ!」
と思って耳をすませば・・・・
一揆衆「○×▲*‰∬≫♯@・・・」
甲賀忍者「・・・え!?なんて言ってんのこいつら!?」
なんと・・・方言がわからなくて何言ってるのかわからない。。
時たまポルトガル語とかも入ってくるものだから、もうチンプンカンプン。。
せっかく忍び込んだのに、何にも報告できるほどの内容は得られなかったのである。
ううむ。。カッコ悪い。。
最終的には、望月さんが落とし穴に落ちた次の日の総攻撃により、幕府軍は一揆を鎮圧することができた。
これが島原の乱とか、天草・島原一揆とか呼ばれているものでござる。
=====================
第15問 解答:④島原の乱
=====================
最終的には、この10名の甲賀忍者達は、死体の後片付け、埋葬などまでやったとのこと。
しかも江戸にも甲賀にも帰らず、島原の地で、隠れキリシタンとして暮らしたらしい。
もう甲賀にいても、江戸にいてもたいした忍びの仕事はできないと思ったのでござろうな。
食い扶持をつなぐのは大事である。
拙者も忍者でなんとか食い扶持をつなぎたいが、ダメだったら隠れキリシタンになろうっと!!
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